一章「春の雨」

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 雪葉は反射的に、我が事のように声を上げた。 「ええっ!」 「たぶん、デスクの上にそのまま置いてきたな。――失敗したなー。プロジェクトルームの扉はロックかかってるし、俺帰る時も人ほとんどいなかったから、盗まれることはないだろうけど……」 「鍵を持ってるお知り合い、近くにいないんですか?」 「いないね」 「なら、管理会社に電話すれば」 「あ、そっか」  伊桜は携帯電話を取り出し、すぐに電話を始めた。電話帳に登録してあるのか、早い。  数分のやり取りの間、帰るのもなんなので、ひとまず雪葉はその場にいた。通話を終えた伊桜は携帯電話をポケットに戻す。肩は落胆していた。 「二時間後だって」 「そ、うですか……。でもとりあえず、今日中に部屋に入れそうで、良かったですね――」  ぽとりと、雪葉の鼻の頭に冷たいものが当たった。夜の黒い雲から続けざまに落ちてくる。雨だ。 「げっ、雨。今日って雨予報だったの?」 「はい。でも、夜中からの予報だったんですけど」 「うわー。傘持って来てないや」 「私もです。折り畳み傘って、常に持ち歩こうと思っても、なんだかんだで鞄で幅もとるし、重いしで。携帯しなきゃ、意味ないんですけどね」  「あはは……」と曖昧(あいまい)な笑いを語尾に残しつつ、雪葉は伊桜に会釈をした。 「じゃあ、私はこれで。お疲れさまでした」 「えっ! ちょっと待った!」  急に手首を掴まれた。驚きに目を()く。 「ごめん。元村さんの家に、寄らせてもらえない?」 「へ?」 「玄関のとこに、座らせてもらえるだけでいいから。お願い!」  このイケメンは何を言い出しているのだろう。イケメンなら何を言い出しても通ると思っているのだろうか。 「い――嫌です!」  手首を握られていることに激しく動揺していた。人肌の温もりに触れるのは、何年ぶりだろう。初めて帰省した時に母に抱き締められて以来か。 「駅前に、カフェとかあるし、そ、そこで時間潰してたらどうですか!?」 「この雨の中を、傘なしで駅前まで戻れって? 元村さんって、意外とえげつないこと言うね」 「だ、だ、だって」  家に入れるってどういうことだ。混乱する。ゆっくりシュミレーションし準備をしなければ、いきなり家になど入れられるわけがない。  雨足がどんどん強まっていく。明日の朝まで続く本降りの雨になりそうだ。三月初旬、雨の中、外で二時間待つのは寒い。 「あ、もしかして、家に別の男入れたら彼氏に怒られるとか?」 「かれしっ!? は、いまはいませんけどっ」  いまは、どころか、この世に生を受けて二十五年間いた試しがない。小学生の頃から眼鏡をかけ、性格も内向的で、体育の授業で目立つこともなければ成績が突出することもなく、陰気な女子だった雪葉だ。男子が振り向くはずもない。 「じゃあ、お願い! 俺、玄関で静かに座ってスマホ見てるから!」  雨で髪も服も濡れていく。(あせ)りが(つの)り、雪葉は混乱で脳が一時停止したまま、伊桜をアパート三階にある自室へ招いた。玄関扉が重い音を立てて閉じ、雨粒から解放される。  狭い玄関に大人二人で立つには密着しなければならないため、雪葉は素早く靴を脱いだ。室内は真っ暗だ。雪葉の安いアパートには玄関の照明がない。  ユニットバスへの扉やキッチンがついた短い廊下を進み、六畳間の照明をまず点ける。伊桜は玄関で(たたず)んでいる。決断を急いだため、二人ともひどくは濡れずに済んだ。 「タオル、使いますか?」 「ああ、うん。できれば。――ほんとごめんね。女の子の一人暮らしの部屋に、いきなり押し入っちゃって。でもまじで助かったよ」  多少強引な後のフォローも、ばっちりである。これなら文句を重ねるのも無粋というものだ。  眼鏡に雨粒がついて、視界がすこぶる悪かった。雪葉はハンカチで手早く眼鏡を拭いてから、部屋のチェストにしまってあるタオルを取り出した。玄関へ持っていく。伊桜は「ありがとう」と受け取り、完璧な遠慮の笑顔で言った。 「俺のことは、いないものとして扱っていいからね。動画でも見て、勝手に暇潰してるし」  茶色に染めてある髪を軽く拭きながら、伊桜は手元の携帯電話を操作して見せる。直後、その画面が暗転した。 「あ。電池切れた」  素で呟いた後、伊桜は頭にタオルを当てたまま、ぎこちなく雪葉を振り向いた。 「あの……あとで、管理会社から電話来る予定で。充電させてもらえないかなー……なんて」  状況や理屈は理解できるが、やはり図々しい感は否めない。しかしこの手の図々しさがきっと、伊桜は外見やら会話術やらでずっと通せて生きてこられたのだ。  雪葉も実際には、迷惑半分、イケメン上司と二人きりの夢のようなシチュエーションにときめき半分、だ。人間は、美しいものに()かれずにはいられない生き物なのかもしれない。 「コンセント、部屋なので……中、どうぞ。……狭い、ですが」
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