一章「春の雨」

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 バスタオルで隠し切れていない本棚の下段には、技術書が隙間なく並んでいた。技術書は高価で、一冊四千円前後するものばかりだ。もう読んだからと、一緒に働いたエンジニアに頂いた品もある。 「ちょっと、見ていい?」 「はい……どうぞ」  プログラミング言語の本だけでなく、ウェブ全般の知識や、データベースから画面まで流れの仕組みが記された本、わかりやすいコーディング(ソースコードを記述すること)の仕方だとか、様々だ。だがこれだけ学んでも、まだまだたくさん学ぶことがある。  伊桜はしばらく本を読んでいた。スーツ姿で真剣に本を読む容姿端麗の男性は、見ているだけで眼福だ。雪葉が音を立てずに皿の片づけをしようとすると、伊桜が首を回した。 「あ、俺しようか。ごちそうになったし」 「いえっ。伊桜さんは、お客さまですし。それにすぐに済むので」 「そう……――ありがとう」  柔らかくほほえまれた。雪葉は慌てて目線を外し、シンクへ向かった。水道の蛇口をひねる。  危ない。うっかり好きになるところだった。異性への、さらにイケメンへの耐性が無さ過ぎて、脇に変な汗が(にじ)んでくる。  しばらくして、伊桜の携帯電話が振動した。管理会社からだった。二、三言やりとりを交わし、伊桜は立ち上がる。シャツを整え、スーツを羽織った。たったそれだけの動作が凄まじく格好良く見え、雪葉はさらに危険を感じた。  これでは、たった二時間の間に、伊桜に恋をしてしまったかのようだ。短時間で急に好きになられても、伊桜もさぞ気色悪かろう。雪葉は平常心を心がける。  伊桜は玄関で靴を履き、缶ビールの入った袋を持ち上げた。見送りに来た雪葉を振り返る。 「ありがとう。ほんと助かった。ごちそうにもなっちゃって」 「いえ。大したおもてなしもできず……」 「いやいや、じゅうぶん」  俯きがちだった雪葉の頭に、手が触れた。呼吸を忘れ、ゆっくりと顔を上げる。伊桜の笑顔があった。 「じゃあ、また明日」  手が離れ、玄関扉が閉まった。急に、いつもの自分の部屋になった。雪葉はしばらくの間、その場で石像のように固まっていた。 (いま、何、された……?)  頭を撫でられた。何故だろう。  いや、きっと大した意味はない。伊桜は、ごく軽い気持ちで撫でたのだ。そうに決まっている。  万に一つも、雪葉を好ましく想ったからではない。それを正しく理解する程度には、人への観察眼は持ち合わせていると、自負している。でないと、別プロジェクトへ移動するごとにころころと変わる職場で、問題を起こさずにやっていくことはできない。  雪葉は、玄関の照明代わりにしているキッチンの照明を消した。明日も仕事だ。シャワーを浴びて、洗濯をして、早く眠らなければならない。    ×××  伊桜(いざくら)(こう)は、自宅マンションへの道を歩きながら、少し後悔していた。 (やっば。つい頭撫でちゃった)  密室空間に異性と二人きりだったため、つい手が出てしまった。昨今は、肩に触れただけでセクシャルハラスメントだと騒ぎ出す世の中だと聞く。元村雪葉は、そのような過激な女性ではなさそうだが、行動には気をつけなければならない。  それにやはり、悪いことをしたかなとも思った。雨の中、駅前まで戻るのも、マンションのエントランスに二時間いるのも気怠かったので、軽い気持ちで頼み込んでしまった。彼女は外交的な性格には見えないし、迷惑だったかもしれない。反省反省と、昊はその場で思いながらも五分後にはすっかり忘れ、部屋に戻りシャワーを浴びて寝た。  翌日、平日勤務の労働者たちが誰しも喜ぶ金曜日、昊は仕事を終えてから、指定された居酒屋へまっすぐ向かっていた。気まぐれに開かれる同期の飲み会に誘われていたからだ。  居酒屋は複数のテナントが入る雑居ビルの中にあった。縦長の内照式看板には、ほかに居酒屋の名が五個もある。エレベーターに乗り、目的の店がある四階へ向かった。店員に案内され、掘りごたつ式の座敷席へ行くと、入社以来の顔馴染みの五人が飲んでいた。 「おっせーぞ! もう九時過ぎてるっつーの!」  同期の向井(むかい)に、指を差されて叫ばれた。小柄で、吊り目で、髪を針山のように立てた威勢のいい男だ。すっかり酒が回っている。昊は空いている席に座った。 「これでも急いで来たんだよ」  鞄を置き、スーツの上着も脱ぐ。ネクタイを緩めながら、店員に「中ジョッキ一つ」と注文した。隣から、最も付き合いの長い(おき)が、口の端を上げて訊いてきた。 「よう、出世頭。初PMはどうっすか?」  女性からよく、『沖くんって優しいんだけど……ごめんね』と振られるらしい沖は、昊と中学校まで一緒だった。高校大学とほぼ連絡をとっていなかったが、会社の採用試験の時に偶然再会し、以来また付き合いを持つようになった。 「途中参入だから、仕様をなかなか理解し切れない。ひと月以上、毎日暇さえあれば、設計書読み続けてるけど、膨大過ぎて頭が痛くなってくる。――開発メンバーは、久我さんが整えてくれた、優秀な人ばっかなんだけどさぁー」 「元から現場いるの、井上(いのうえ)さんと柏崎(かしわざき)さんだったよな。あの二人、上に立つにはちょっと微妙そうだもんな」  同じ会社の先輩を上から評価できるのも、同期の飲み会ならではだ。昊は卓に届いた生ビールを喉へ流し込んだ。この最高の一瞬のために、一日頑張っている気がする。 「せっかく久我さんがくれたチャンスだし、どうにかリリースまで、成功させるけどな」 「おおっ。気合い入ってるねぇ」 「なあ向井ぃー」  別の同期の千堂(せんどう)が、向井に話しかけた。 「俺、自社作業に戻りたいんだけど。いまの現場、九時始業で定時が十時なんだよ。時計ひと回り超えだぜ? 最近の俺、家いるのたった八時間、睡眠時間含めて。死ぬ」  向井は、同期内で唯一、技術者ではなく営業担当だ。案件を取って来たり、現場に人員を割り当てる仕事をしている。 「うーん。あんまりひどいようなら、そっちの現場の営業と話してみるか?」 「頼むよぉー。うちの会社も、もっと自社作業の受託案件増やしてくれたらなぁ。客先常駐はしんどい」 「自社作業の受託だって、炎上する時はするぞ?」 「画期的な自社サービスが、あればねぇ」  沖が挟んだ呟きへ、昊も言う。 「ああ。検索エンジンとか、アプリストアとか?」 「もっと市場に参入しやすいサービスだよっ! 入り込めるか、んな寡占状態のとこ! もはや国の支援でも受けない限り無理だっつの!」 「一時的なものじゃ、システム作るだけで赤字だからな。長期的に続くものじゃなきゃならない。けどそんなアイディア簡単に出ないし、博打するだけの資金もないし」 「現実は、そうなんだよなぁー」  昊の真っ当な意見に、沖はうなだれるように頬杖をつく。向井が喜々とした目をした。 「やっぱ管理するだけで金が勝手に入ってくる仕組みが一番だよな。その点、伊桜の兄貴はすげえよ。ここ数年じゃ、一番の成功者じゃねえ?」
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