一章「春の雨」

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「電話してないじゃん」  沖だった。昊は吸っていた煙草を携帯灰皿にすり潰した。 「なあ。あいつ呼ぶ時、俺呼ぶのやめない? 俺らが死ぬほど反り合わないの、お前だって知ってるだろ」 「まあまあ。あいつも悪気はないんだし」 「そりゃわかってるけどさ。まじで俺を想って、仁義溢れる感じで説教してくれてんだろ? でも完全に場も読めてないし。――俺は、飲みの席まで積極的にイライラさせられるのはごめんなんだよ。あいつが喋ることなんて、一般論ばっか」  書店へ行き、自己啓発本でも買って開けば書いてある文言ばかりだ。 「陣之内、話し相手作るの苦手だしさ。同期くらいが誘ってやらんと、寂しいだろ」  沖は昊の隣に来て、同じように非常階段の手すりに腕を乗せながら、言葉を継いだ。 「それに、あいつがお前に腹立てるのも、仕方ないとこあるんだよ。……あいつ、まだ、初心(うぶ)だから……」  あまり大きく反応するのも失礼な事案だった。昊は『まじで!?』と声を大にして返すところを、沖の遠い目をした横顔を振り向くだけにとどめた。  なに、まだ二十七歳だ。気にする程のことではない。だが、『もう二十七なのに!?』と心なく言う人もいるだろう。昊の話が不快だったとしても無理はない。  次は、陣之内にもっと優しくしようと、昊は思った。    ×××  終電に間に合うよう、一同は余裕を持ち居酒屋を出た。各々の帰宅路線に合う駅へと、ふた手に分かれる。昊は向井と二人、同じ駅へ向かった。 「そういえば、お前に教えて欲しいことあるんだけど」  向井はまだ酔いが残る上機嫌さで、「ん?」と振り向く。 「お前って、俺の案件の営業にも関わってたよな?」 「うん」 「YZソフトから来てるエンジニアの、単価ってわかる?」 「えー。そういうのは、言っちゃだめだってことになっててぇー」  ふざけ、向井は女のように腰をくねらせながら指を顎に当てた。だが仕草をすぐに戻し、中空を見やりながら教える。 「YZソフトさんは、実は、あんま良い感じしないんだよねぇ。あ、俺の感覚ね。金にがめつい感じがあるっつーか。割とすぐに単価上げようとするんだよ。マージンも、結構とってるっぽいし」  中間マージン、報酬の中抜きのことだ。多重下請け構造のシステム開発では必ず発生する。昊たちの会社のノヴァソリューションが、一人のエンジニアへ払っている報酬金額から、YZソフトが何割かを抜いた後に、エンジニアへ報酬が渡る。 「噂で聞いた話だと、半分近くとってるらしい」 「は?」  思わず声が出た。中抜きの額は各社の裁量だが、良心的なところで一割、通常が二割程度といったところだ。 「うっわ、えっぐいなー。エンジニアを何だと思ってんだ」 「YZソフトさんからさ、先月、一人いなくなっただろ?」  昊は頷く。ひと月ほどしか関わりがなかったエンジニアだ。 「その人、実はYZソフトさんのパートナーさんだったらしくて」  パートナーとは、協力会社の人の呼び名だ。 「営業同士で、契約に折り合いがつかなくなったから、終了になったらしい。要は金に揉めたのね。これで、残るYZソフトさんのパートナーさんは、元村さんだけかな。ほら、女性の」  昨日、その女性の家で彼女が作ったオムライスを食べました、なんて反応は見せず、平然と聞く。 「うちからは、彼女に月百万払ってるからね。でも、一体どれだけ本人にいってることか」  暮らしぶりから、かなり絞り取られているように思われた。哀れだ。だが状況は自分で打破するしかない。彼女自身が自分の技術に報酬が見合っていないと判断し、自社に抗議をするか、もしくは転職し会社を変えるか、あとはフリーランスになるか。  例えば、小笠原のようなエンジニア歴二十年のベテランは、中抜きがあほらしいのでフリーランスで働く。その分相当の努力は重ねてきただろうし、目まぐるしく進歩する技術についていくため、これから先も常に勉強し続けなくてはならない。大変さはほかにもあり、仕事は単独で営業し取って来なければならないし、また、歳を重ねてからは仕事を得ることが難しくもなっていく。  それでもやはり、中抜きを嫌いフリーランスになる者はあとを絶たない。 「まあ、YZソフトさんより、もっとひどい会社もあるけどさ。社員に技術者ゼロで、営業だけの会社とか。それでシステム会社とのたまうの? って感じ。――YZソフトさんの残りの二人はどっちも社員の人で、山口(やまぐち)さんが百万、阿佐ヶ谷(あさがや)さんはチームリーダーとしてとってるから、人月(にんげつ)百二十万」 「へー」  おざなりな反応に、向井が瞳を細くした。 「何? 元村さんのだけ気にしてた感じ?」  しくじったと昊は思った。一週間へとへとに働いた後の飲酒後、細かな部分まで気が回らなくなっている。 「狙ってんの? 確か、まだ二十五だもんね」 「いや、そういうんじゃなくて」  そんなことは、欠片も考えたことがない。前提として、面倒ごとになるのは嫌なので、職場の人間には絶対に手を出さないことにしている。 「ほんとかなー?」 「当たり前だろ」  向井は面白いねたが欲しいようだった。折良く駅に着いたため、改札を通り、一旦話は途切れる。  駅のアナウンスを聞きながら、ふと、元村雪葉のエプロン姿を思い出した。腰の紐を縛った時に、意外と胸があるなぁと思った。いつもゆったりとした服を着ているから、気づかなかった。  線路の奥から電車が見えた時、向井は思い出したようにまた口を開いた。 「あっ、そういえば。元村さんだけど、四月で――」    ×××  水曜日に『ノー残業デー』というものを働き方改革で取り入れている企業もあるが、客先常駐で他社に仕事に来ているだけの雪葉たちにとっては、まるで関係のないことだ。本プロジェクトの顧客である、かえで銀行本社の社員たちが定時退社をしている中でも、納期のために関係なく残業をする。  時刻は夜九時を過ぎていた。今日は、すんなりと直せないバグ(プログラム上の不具合のこと)に詰まり、進捗が大きく遅れてしまった。これ以上粘っても、明日に疲れが残る。できなかった作業はもう明日に回し、今日は帰ってしまおうかと悩みながら、雪葉はバグを直した箇所の動作確認をする。気づけば、プロジェクトメンバーで残るのは、雪葉と伊桜だけになっていた。  とはいえ、フロア全体にはまだ人がいる。今回の案件は、銀行の業務システムだが、プロジェクトは一つだけではない。預金や融資などの勘定系プロジェクト、為替や外資などの国際系プロジェクト、その他顧客管理やセキュリティ、行内システムなど、複数のプロジェクトが同時に進められている。そのうちの一つが伊桜のもので、フロアには、他プロジェクトのメンバーのデスクも並んでいた。 「元村さん」  ずっと、マウスとキーボードの音しかしなかった中で、背中側から声をかけられた。伊桜が、座ったまま液晶画面越しに雪葉を覗いていた。 「どこか詰まってます?」 「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと時間がかかったんですが、解決したところで」 「そう。残り、明日でいいですよ。今日はもう遅いから」 「わかりました」  ファイルを上書き保存し、開いていた複数のウィンドウを閉じる。シャットダウンしてから帰り支度を始めた。雪葉が残っていては、伊桜も帰りづらいのだろう。  デスクの下に置いてある鞄を持ち上げたところで、伊桜の会社携帯電話が鳴った。他プロジェクトとの連携や、上位会社のクレセントデータの社員とやりとりをする時に、使っているものだ。 「はい、ノヴァソリューション伊桜です。――お疲れさまです。はい、大丈夫です。――はい」  口調はいつも通り平坦で落ち着いている。しかし表情をさりげなく窺ってみると、瞳の奥が不機嫌だった。 「――ええ……はい。明日だと……はい――なるほど、そうですよね。……わかりました」  本能的に急いで帰ろうとしていると、電話を切った伊桜に呼び止められた。 「すみません、元村さん。帰ろうとしてるところ、大変申し訳ないんですけど、やっぱりもう少し残れませんか?」
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