第72話 一茶との距離

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第72話 一茶との距離

「話しかけるかどうか迷ったんだけど、お前……」 一茶はそう言いかけ、あたしはゆっくりと頷いた。 橙子さんは会釈をして店に戻り、マシロは 「俺はあの公園で待ってる」 と前方の公園を指差しながら、その場を離れた。 「わかってたんだ……?」 あたしが言うと 「わかるに決まってんだろ!」 と一茶は言った。 「あの人は…… 橙子さん? だよね?」 あたしが聞くと 「あぁ」 と一茶は答えた。 「どうして一緒に?」 「それが…… 35年前の梓山の地滑りのあった日、 突然あいつが現れたんだ」 一茶は真面目な顔で言った。 「集落ではお前がいなくなったって大騒ぎしていた。 俺もあの裏山の倉庫に急いで駆けつけたけど、 その時にはもう倉庫は土砂に埋もれていて、 規制線が張られて近づけなかった。 『ここを開けろ!』って捜索隊に食ってかかったんだけど 『帰りなさい』の一点張りで。 それで俺は仕方なく家に帰った。 俺の家はじいちゃんとばあちゃんだけで、 家にも土砂が押し寄せてきてたから……」 あたしは一茶の言葉ひとつひとつを噛みしめるように聞いた。 「それで庭の片付けをしていたらあいつ…… 橙子がぼんやりと花壇のへりに座り込んでいたんだ。 俺、最初透子かと思ったんだけど、よく見たら別人だった。 そして事情を聞いて俺の家で保護したんだ」 橙子さんもあたしと同じような流れを辿っていたとは……。 「橙子がどうやら未来からタイムスリップしてきた事はわかった。 そしてそれが透子の行方不明と関係してるんじゃないかって事も。 橙子を警察に預け渡す事も考えたが、 俺はこの謎を解明するため、橙子を(かくま)った。 大阪に出てくる時も一緒に連れて来て 一緒にいるうちにお互い心を寄せるようになって何年か後に結婚した。 結婚って言っても入籍はしていない事実婚だけどな」 「そうなんだ……」 その話を聞いても不思議と気持ちは落ち着いていた。 「透子、今お前がここに現れたって事は、意味があるんだろ!? これはどう言う事なんだ!? 橙子(あいつ)過去の事はあまり話したがらなくて、 俺も何がどうなってんのか……」 「あたしも…… よくわかんないんだ。 その謎を解明するため大阪(ここ)に来たんだ」 「そうだったのか……」 しばらくお互いの間に沈黙が流れた。 「橙子がそばにいればいつか透子も現れるんじゃないかって気がしてた。 でも気がついたらもう35年も経ってた」 「あたしからすると ほんの数ヶ月前までは一茶と一緒にいたんだけどな」 「そうか、そうなんだな……」 一茶はあの頃と変わらず優しかったが、 どうしようもなくあたしと時間の流れに対する感覚がズレていた。 それにあれだけ会いたかった一茶に会ってみて、 橙子さんと結婚していた事はショックではあったが、 それよりも一茶が一茶であって一茶でない、 しばらく会わなかった友達が、 なんだかしっくりこなくなってしまったかのような感覚。 あたしがほんの数ヶ月だけど一緒に生活していたマシロや漂、 翠さんや学校の友達と縮めた距離。 あたしがこれだけ今の生活に馴染んでいるって事は、 一茶が35年も一緒にいた橙子さんとの絆は もっと確固たるものだろう。 「透子、それでお前、大丈夫なのか? 俺に何か出来る事あるか?」 一茶が聞いた。 「ううん、大丈夫。 さっき一緒にいた連れが元の世界に戻れるように 今いろいろ策を練ってくれてるんだ。 今回一茶や橙子さんに会えた事はきっと活かしてくれると思う」 あたしが言うと 「そうか……」 と一茶は心配と安堵が入り混じった顔であたしを見た。 「でも、どうあれ一茶が幸せそうで良かった」 あたしが言うと 「あぁ、透子も元気そうで良かった。 もし、何かあったらいつでも連絡してくれ」 そう言って一茶はズボンのポケットから名刺入れを取り出し、 中から一枚出してあたしに手渡した。 あたしはそれを受け取って 「ありがとう。 もしあの頃に帰れたら、また遊んでくれな」 と言うと 「あぁ、また会おう。健闘を祈ってる」 と一茶は手を差し出し、あたしたちは握手をした。 少しシワっぽくなった、大きな温かい手だった。
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