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前夜の気配
ある夜、エヌ氏はただならぬ気配に目を覚ました。真っ暗な寝室を見回す。夜がひっそりと存在していた。体が心臓の動きに合わせて揺れている。いつの間にかうっすらと汗をかいていた。
「これはいけない」
ぼそぼそと口にして、ベッドから飛びだした。急いで親しい友人に連絡をする。心臓の鼓動が頭のなかで反響した。
「なんだ、こんな時間に」
眠そうな声が聞こえた。平和に浸っている声だ。エヌ氏は友人の目を覚まさせてやろうと、緊迫した調子で告げた。
「たいへんだ。明日この世界は滅亡する」
「うん、うん。寝ぼけているのではないか。目を覚ませ。目を覚ましたら病院へ行ったほうがいい。なんなら、わたしが腕のいい医者を紹介してやろう」
「冗談じゃない。わたしは正常だ。おかしいところなどどこにもない」
「うそを言うな。こんな真夜中にひとをたたき起こして、明日世界が終わるというやつがまともなわけがあるか」
冷静に指摘されてエヌ氏はすこし冷静になった。ひとつ息を吸ってはく。
「わかった。わかった。この時間に連絡した件は謝ろう。だが、世界が滅びるのは本当なのだ。信じてくれ。きみなら知っているだろう。わたしに霊感めいた力があることを。ほら、小学校のときを思いだせ。あの、遠足のときだ」
「遠足か。ああ、あれか。あれなら覚えているさ。きみが遠足の日は雨が降るから中止になるだろうとクラスメイトの目の前で宣言したことだろう」
「そう、それだ。あのときもわたしは感じたんだ。雨の降る気配を。今回と同じさ。なにか大きなできごとがあると感じるんだ。心がざわざわするというか、肌がぴりぴりするというか、とにかく特別な感覚が押しよせてくる」
エヌ氏の話す声が高くなる。無意識のうちに身振り手振りもついた。それにくらべて友人は冷ややかだ。
「落ちつけ。よく考えろ。あのとききみは雨が降るといったが、遠足当日は雲ひとつない晴れだったではないか。きみの予感は外れたんだ。クラスメイトからさんざんうそつき呼ばわりされたのを忘れたわけではないだろう」
「忘れるものか。わたしの予想は当たっていたのだから」
「あのなあ、いまさら、うそをつくな」
「うそじゃない。遠足の翌々日に雨が降っただろう。それがわたしの予想した雨だ。精度が足りなかっただけだ。雨が降るというわたしの直感は当たっていた」
「そんなことを言いだしたらだれでも当たるさ。いつか雨は降るんだ。晴れが何十日もつづくことなんてめったにない。ここは砂漠じゃないんだぞ」
「なんてことだ、信じてくれないのか。だったら、あの件はどうだ」
エヌ氏がつぎの話をくり出す。友人はあくびで答えた。
「まだあるのか。なんだ」
「大きな地震が来るのを予知したことがあっただろう」
「あったか」
思いだそうともしていない声が聞こえた。エヌ氏が声をはる。世界が消滅する危機をなんとしても友人に伝えなければならない。親しいつき合いをしているものとして、エヌ氏にはその義務がある。
「わたしが地震の気配を感じて、きみに伝えたことがあっただろう。本当はみんなに伝えたかったが、きみしか信じてくれそうになかった」
「ほう、昔のわたしは親切なやつだったようだ」
「冗談を言っている場合じゃない。昔の心を取りもどせ。まだ遅くはない。いいか、あのときわたしはきみに、一週間もしないうちに大地震が起こる。世のなかはたいへんなさわぎになるぞといった」
「そう言われてみればあったような気もするな。地震の被害が大きすぎて、きみの予言などすっかり忘れていた」
「ひどいものだ。せっかく忠告してやったのに。親族がいたら避難させろといったのも聞かなかったな。わたしは覚えているぞ」
「友人が地震を予知したから、住んでいる場所を捨てて逃げてくれなどと伝えられるか。頭がおかしくなったと思われる。それに、あのときもきみの予言は正確ではなかっただろう。きみが予想した日と実際に大地震が起こった日は十日以上ずれていたはずだ」
へらへらと友人が話す。まったくエヌ氏の話を本気にしていない。
「十日のずれがなんだ。予言の規模に比べればささいなことさ」
「いや、しかしだ。地震が来る、地震が来る、と何度も言っていればいつかは当たるんじゃないか」
「や、失礼な。わたしはあてずっぽうの予言をしたことなどない」
「そうだったかな。外れたときのことは記憶に残らないからな。なんとも言えないんじゃないか」
友人の態度に腹が立ってきた。親切心で世界の滅亡を知らせてやろうというのに、感謝の心がまるでない。伝えるのはやめようかとも思ったが、あと一日で世界は終わるのだ。最後くらいは親切にしてやろうとふたたび友人の説得にかかった。
「きみが信じれくれないのなら、とっておきの情報を出すまでだ」
「話のたねがつきないな。すっかり目が覚めてしまった。よし、きみの気がすむまで話を聞こうじゃないか。今度はなんの予言だ」
「つい最近の話だ。きみも記憶に新しいことだろう」
「はて、最近か。なにかあったかな」
「きみというやつは、わたしの力を見せただろう」
エヌ氏が肩を落とす。だが、脱力ばかりしてはいられない。気を取りなおして自らの力の信憑性を認めさせなくてはならない。
「宝くじだ。当選番号を当ててみせただろう」
「ああ、あれか。あれなら覚えているぞ。きみが頭のなかに数字が浮かんできたといったやつだな。急に妙なことを言いだすから心配したものだ」
「だが、結果はどうだった。当たっていただろう。だから、今回の世界が消滅する予感だって当たるに――」
演説のような口調でしゃべっているエヌ氏を友人が止めた。
「ちょっと待て。きみの予想は外れたはずだ。ちゃんと覚えている。きみがあまりにも強引に勧めるものだからわたしも買ったんだ、宝くじを。それで外れたのだからまちがいない」
「や、しかし、かなりの数字があっていただろう」
「ばかか。宝くじは全部の数字が合わないと高額当選しないんだ。きみの言うようにほとんどの数字はあっていたが、残りの数個が外れた。こうなればくじはただの紙切れだ。なんの価値もない。なあ、もうそろそろ話を終わりにしていいか。さすがに一睡もしないのでは明日にひびく」
「ちょっと待ってくれ。世界の存亡にかかわる重要な話だ。いいか、宝くじの数字のうち、大部分を的中させたのは事実だ。つまり、つまりだ。すこしはわたしの力を信じてくれてもいいのではないか」
「すこしはな。だが、すこしは所詮すこしだ。全面的に信じられるわけじゃない。きみの力はどこかずれているんだ。ぴったり的中することはない。だから、明日世界が滅亡することもない。ちがうか」
友人が言いきる。こうまではっきり言われてはこれ以上粘るすべがない。エヌ氏はため息をついた。
「わかった。今日は悪かった。もうきみの睡眠を妨害しない。気のすむまで眠ってくれ」
「まあ、そう落ちこむな。きみには少々ものごとを予知できる力があるわけだ。修行をすれば、いずれ的確に予見できる日が来るかもしれない。そうなったらきみは英雄になれるぞ。せいぜいがんばってくれ」
あくび交じりに友人が口にした。本気の助言ではない。
「ああ、ありがとう。じゃあ」
エヌ氏が友人との連絡を切った。真夜中の部屋が戻ってくる。いつもと変わらない静かな世界だ。ざわざわしているのはエヌ氏の胸のなかだけ。
「きっと、なにかの勘ちがいなのだろう」
不安を振りきるようにベッドへ戻る。布団をかぶって朝が来るのを待った。
人生で一番長く感じた夜だったが、朝日はのぼってきた。エヌ氏は努めて普段どおりにふるまい、世界もそれに応じた。昼間が通りすぎ、夜を迎える。エヌ氏が滅亡を予見した日も残り数時間だ。滅亡の予兆はまったくない。
「わたしの思いちがいだったか」
自宅で布団をかぶりながらエヌ氏はつぶやいた。むだなさわぎを聞かせてしまった友人にはなにかおわびをしなければなるまい。食事でもおごればよいか。そう考えごとをしながらエヌ氏は眠りについた。世界が滅亡する前夜のことだった。
エヌ氏の予感はすこしずれる。
〈了〉
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