隣人に光の射すとき

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「……あずさも」  発した声はかすれ切っていて弱弱しく、こんなんじゃダメだと理久は力を振りぼって咳ばらいをした。  しかし、一度咳をすると今度は止めることができなくなって、身を捩りながらゴホゴホと体力を消耗するだけの咳を繰り返す。  梓がすかさず理久の背を抱き起し、抱きしめるようにして背を叩いてくれる。  呼吸が苦しいときは寝ているより体を起こした方が楽なのを、看病に慣れた梓は知っているのだ。  変なことばかり慣れさせてしまったな、と理久はにがく思う。  梓が自分のことをあまり顧みない性格になったのは、実は理久のせいなんじゃないか、と考えて、その可能性はありすぎるほどだったのでかなしくなってしまった。  梓は梓でしあわせになれ、と数年前彼に告げた言葉に、偽りなんて僅かもないのに。  梓が自分のしあわせのことだけを考えられないようにしてしまったのが、理久自身だなんて、本末転倒にもほどがある。  内心でうんざりと自分へ唾棄した理久は、咳がようやく治まってから、黒瀬が差し出してくれたスポーツドリンクのストローを吸った。  甘いような酸っぱいような味が喉に沁みて、また少し咳が出た。  ゆっくりと水分補給をした理久は、慎重に深呼吸をして、よし大丈夫、という段になってあらためて口を開いた。 「梓も、おっさんも、もういいから自分トコ帰れよ」  背中を支えてくれている梓の体を、右腕で押しのけて、理久はそのまま手をシッシッと振った。  熱が上がってきたのだろう、寒気は弱くなってきていて(決して快方に向かっているわけでないことはわかる)、理久はいまのうちにと二人を追い出しにかかった。  彼らは理久の家の隣に住んでるので(マンションなので本当にすぐ隣なのだ)、本当にしんどくなればすぐにたすけてもらえる距離に居る。  だからわざわざ大学を休んでまで看病してもらわなくてもいいし、夜勤明けで着替える余裕もなくスーツ姿のまま駆け付けてもらう必要もなかった。 「オレも、大人しく、してるし。なんかあったら、電話するから」  話していると呼吸が乱れて、理久は飲み物のボトルを黒瀬へ押し付けると、そのまままた横になった。 「オレ、寝るから」  バイバイ、と毛布から出して振った手を、不意に梓に握られた。  ぎゅっと両手で掴まれて、その力の強さに驚いて彼の方を見る。  梓は黒目がちの大きな瞳で、理久を真っ直ぐに捉えて、凛とした口調で告げてきた。 「帰らないよ」  梓の言葉を聞いた黒瀬が、顎髭をさすって小さく笑った。  男は梓の頭と理久の頭の上でポンポンと手を弾ませてから、長い足を動かして寝室を出て行った。すぐにキッチンから水音が聞こえてきたから、湯たんぽの用意をしているのだろうと察せられた。  梓は理久に布団を掛けなおして、室温や加湿器の調整をしてくれている。  こまごまと動き回る梓を目で追っていると、梓の視線が流れてきて、彼がにこりと微笑した。  昔からずっと、きれいな顔だと思っていたけれど。  最近の梓はますますきれいだ。  きれいで、やさしくて、理久の自慢の親友。  梓になりたかった。  理久も、彼のようにきれいな存在になりたかった。  なんでだろうなぁ、と理久は梓の目を見つめなら息苦しさに、はふ、と肩を揺らした。  梓になるのが無理だとしても、なんで自分は、梓と黒瀬の子どもに生まれてこなかったんだろうか。  理久が二人の子どもだったら、どれほどしあわせだっただろう。  梓ママと黒瀬パパの子どもだったなら、きっと、こんなに苦しい思いはしなかった。  梓も黒瀬もどっちも好きだと、無邪気に言えたはずだ。  どっちも好きで、どっちも愛してると、なんの含みもなく言えたはずだった。  梓のことは愛してる。親友として。家族として。愛してる。  でも理久は……黒瀬のことも、好きになってしまった。  梓の恋人に、惹かれてしまった。  梓を愛している黒瀬を、理久は、好きになってしまったから。  もう絶対に、空想の中ですらも彼らの子どもにはなれないのだと、悟った。  じっと見つめてくる理久を不思議に思ったのか、梓が小首を傾げる。 「理久?」  たぶん、これまでの人生で理久の名前を一番多く呼んだのは、梓だ。  理久を捨てた親でも、施設の職員でもなくて。  理久は、梓に一番多く、名前を呼ばれてきたのだ。 「……ごめんな」  吐息のような音量で、理久は、梓へと謝った。
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