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梓が眉を寄せて、にわかに怒った表情になる。
「なにを謝られたかわからないんだけど」
梓は怒らせたらけっこうめんどくさい。ふだん自己主張なんてあんまりしないくせに、こうと決めたら譲らない頑固さも持ち合わせているので、怒るときはわりと徹底的に怒るのだ。
だから理久は梓のめんどくささが発揮される前にへらりと笑って、
「おまえのダンナに、湯たんぽなんか、作らせてごめんって言ってんの」
と、冗談で流した。
けれど梓はくすりともせずに、却って眉間のしわを深くする。
「漆黒さんも、理久を心配してるんだよ」
漆黒さん、と梓はいまでもたまに黒瀬のことをそう呼ぶ。
『淫花廓』という閉ざされた場所で使われていた、黒瀬の源氏名だ。
梓だけが呼べる特別な名前だと、理久は思う。
黒瀬だってそう思っているから、何年たっても梓から中々抜けないその呼び方を、咎めたりはしないのだろう。
梓と黒瀬の間の密接な絆を見せつけられた気がして、理久はハハと乾いた笑いを漏らした。嫌な笑い方になってしまった。
体がつらいと、精神まで余裕がなくなってしまう。
悪い癖だ。
「梓。オレは大丈夫だから、ひとりにしてほしい」
理久は唇を引きつらせながらなんとか穏やかな声音を意識してそう言った。
気持ちがいっぱいいっぱいだから、これ以上目の前で梓と黒瀬の仲睦まじい姿を眺めているのが難しかった。
頑なな理久の言葉を、梓はやせ我慢と捉えたのだろう。
「帰らないよ」
と、理久以上の頑固さで、彼はしずかに答えた。
「理久をひとりになんかしない」
梓の声は、理久の鼓膜をこれでもかというほど強く震わせた。
ああ、と理久は泣きたくなりながら笑った。
梓が好きだ。どうしようもなく、梓のことが好きだ。
ごめんな、とこころの中で謝る。
おまえのことが好きなのに、おまえの恋人を好きになっちゃってごめんな。
おっさんに愛されてるおまえに、オレ、嫉妬してんだよ。
こんなきたない気持ちを持ってごめんな。
おまえはこんなにきれいなのに……。
涙が、両目の表面に盛り上がり、こぼれるギリギリでとどまった。
瞬きひとつで、なにかが決壊しそうだった。
いま、理久が泣いたら。
体調が悪いからだと、梓は勘違いしてくれるだろうか。
喉に熱い塊がせり上がってきて、本当にもう帰ってくれ、と情けない懇願が理久の唇からこぼれそうになる、ほんのひと呼吸前に。
ピンポーン、とのんきなインターホンの音が響いた。
ピ、とモニターの操作音がして、
「はい」
と黒瀬が応じるのが聞こえてきた。
「なんだよ、え? は? 俺はいいんだよ。ちょ、おいっ」
玄関の向こうの人物と黒瀬がなにごとか会話したかと思うと、玄関が俄かに騒がしくなる。
ガチャガチャ、ガサガサ。重たそうな袋を両手に下げて、
「りっくん、大丈夫?」
明るい声とともに寝室に姿を見せたのは、理久のバイト先の雇用主、白川智三だった。
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