隣人に光の射すとき

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 眠りに落ちる前に、と理久は無理やりに重い唇を動かした。 「店長……」 「ん?」 「ありがとう、ございました」  白川がいつから理久の気持ちに気づいていたのかは、わからないけれど。  理久のために、憎まれ役を買ってくれて、梓たちを引き離してくれたこと。  本音を吐き出す場所をくれたこと。  忘れてくれると、約束してくれたこと。  ありがとうという言葉に、感謝の気持ちを込めて男へと伝えると、「うん」と小さな相槌だけが返ってきた。  伝わってくる体温がここち良い。  とろとろと意識が溶けそうになって……理久はあともうひとつ、伝えなければならないことがあることに気づいた。 「……てんちょう」 「もう寝なよ、りっくん」  理久の口調があやふやなことに気づいたのだろう、白川が軽く笑って目元を指先でくすぐってくる。  眠気に負けそうになりながらも、理久は唇を開いた。 「通行人、Aじゃ、ないですよ」 「え?」 「アンタが、ただの通行人なら、オレ、話さねぇし」  それに、通行人Aはこんなにもやさしく、理久を抱きしめたりはしてくれないだろう。  白川は他人なんかじゃない。  少し奇矯なところはあるし、よくわからない大人だけれど、理久の中では彼はもはや、単なる通行人ではなかった。 「だから、ありがとう、ございました……ともみさん」  バイトの初日だったろうか、白川に教えてもらった彼の下の名前を、理久は初めて呼んでみた。  頭を撫でていた手がピタリと止まった。   唐突に動きを止めた男を怪訝に思って、理久は糊付けされたかのような瞼を無理やりに持ち上げ、半分塞がった目で、彼の顔を見上げた。  白川は……滲むような微笑を浮かべていた。  彼の顔半分には、カーテンの隙間から差し込む光の帯が、当たっていた。  その白い光は白川の輪郭を浮かび上がらせていて、彼自身が淡く発光しているかのようにも見えた。  白川が、あまりにもやさしい目を、していたから。  理久は眩しくて眩しくて、慌てて瞼を閉じた。  男に抱きしめられている、ということをいまさらに意識して、カッと体温が上がる。  熱によるものか羞恥によるものかよくわからない汗が出てきて、理久は、白川の腕の中でもぞもぞと身じろいだ。  離れてほしい、という気持ちと、このまま体温を感じていたいという気持ちが理久の中でケンカを始める。 「お、オレ、汗かいてるんで」  気持ち悪かったら離れてくれ、と選択を白川に委ねたら。  白川が理久を抱擁する腕に力を込めて、喉奥でくつくつと笑った。 「逃がさないよ、ネコくん。俺の看病は添い寝までって言っただろう?」  あれは冗談じゃなかったのか、と思った理久のひたいの、触れるか触れないかのところで「ちゅ」と音を立てた唇が、甘い声で囁いた。 「観念して、俺に捕まっておきなよ」  男の手が、やわらかな仕草でまた理久の頭を撫で始めた。  その感触に眠りを誘われて、理久はそっと瞼を閉じた。 「……意味わかんねぇス、店長」  白川をわざとそう呼ぶと、 「呼び方戻っちゃったか~」   と、男が呟くのが聞こえてきた。  その声があんまり残念そうだったから。  変なひとだな、と思いつつ理久は、笑いを噛み殺したけれど。  こらえきれなかった感情が、少しだけこぼれて。  笑いの形のままの唇で、眠りについた理久だった……。             隣人に光の射すとき・END
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