一章 すずこ

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 ***  待ち合わせの名スポットとして知られる大型ファッションビルのビジョン前は、今日も多くの待ち人で賑わっていた。約束していた時間より十五分早く着いてしまった私も、早速その中に溶け込んでみる。  メッセージでの事前やりとりの段階から、博臣氏は常に紳士的だった。  野球観戦の前に、カフェへ行きたい。そう言って気になっていたお店の名前をいくつか挙げると、親身になって選ぶのに付き合ってくれた。ここでの待ち合わせも、一緒に行くことを決めたカフェの場所を考慮したうえで、博臣氏が提案してくれたのだ。メッセージの文面から、私の優柔不断さを感じ取ってくれたのかもしれない。その気遣いには非常に助けられた。  こちらの服装は既に伝えてあるので、スマートフォンを見るふりをしながら、そのときがくるのをひたすら待つ。  ここに来るまでに、私は博臣氏のプロフィールを繰り返し見た。  そこで一つだけ気になったことがある。  彼の〈性格〉という欄が、何故か空白だったのだ。  他の彼氏たちはここぞとばかりに自分をアピールしていたというのに。  一体、どんな人なんだろう。  緊張を打ち消すように、ひたすらそんなことを考えていると、 「——すずこさん、ですか?」  名前を呼ばれ、固まってしまった。  この瞬間、私は家族以外の人から「すずこ」と呼ばれたのが五年ぶりであること——つまりは前の彼氏と別れて以来のことだと気付いて衝撃を受けたのである。子どもの頃からあだ名はずっと「すっち」だったし、仕事では苗字や筆名で呼ばれるのが基本だ。  私は、私のことを「すずこ」と呼んでくれる存在に怖気づいてしまった。  大丈夫だと心を落ち着かせるように、一度深呼吸をしてから、ゆっくり顔を上げる。  そこには確かに博臣氏がいた。  濃紺のパンツに、一目見ただけで仕立ての良さが分かる黒のサマージャケット。前髪を下ろした短めの髪はやり過ぎない程度にセットされていて、誠実そうな雰囲気をより際立たせている。なんというか……実物の博臣氏は、写真以上にずっと素敵だった。  この世に、こんなハンサムが存在していたのか。  呆気にとられていると博臣氏の眉が心配そうに歪み、私は慌てて我に返る。 「あっ、そうです。すずこです。今日はよろしくお願いします」    軽く頭を下げると、博臣氏——いや、博臣さんは「良かった」と胸を撫で下ろした。 「違っちゃったのかな、って焦りました」 「すみません!」 「いえいえ! やっぱり初めてだと緊張しちゃいますよね。改めて、博臣です。こちらこそ今日はよろしくお願いします」  なんというか、爽やかな癒し系。  お日さまのような温かい笑顔が印象的で、話し方もふわふわと柔らかい。 これなら、私でも落ち着いて話をすることが出来そうだと胸を撫で下ろす。 「じゃあ、早速行きましょうか」 「はい」  そうして手を差し出される。  これはつまり、そういうことだ。  こんなハンサムと手を繋ぐ機会なんて、この瞬間を逃すと今後一生訪れないかもしれない。……頭の中では分かっているのに、どうしても私はそれに触れることが出来なかった。 「す、すみません……それはまだハードルが高いというか……」  恥ずかしさのあまり、どんどん自分の声が小さくなっていくことが分かる。申し訳なさも相まって消えたくなったけれど、博臣さんは気にした様子を見せず、楽しそうに笑うのだった。 「分かりました! 気にしないでください。強制的なものではないので」  その明るさに、心底救われる。やはり彼は私が探し求めていた仏様そのものだ。  ほっとしたのも束の間、重要なことを思い出す。 「お金、渡さなくちゃ」  店のルールに〈レンタル料はデート始めに渡すこと〉と書かれていた。慌てて鞄に手を伸ばすも、それを止めるように博臣さんはゆっくりと首を横に振った。 「こんなところで渡さなくていいですよ。カフェでいただきます」 「いいんですか?」 「はい」  ほほう、と感心してしまう。こういったルールは絶対だと思っていたが、少なくとも博臣さんに関しては融通が利くらしい。 「梅雨真っ只中だけど、晴れて良かったですね。俺も球場での野球観戦は久しぶりなんだよなぁ。すごく楽しみです」 「あ、そうなんですか?」 「テレビでは毎試合観てるんですけどね。素敵な機会をありがとうございます」  それから、私たちは目的のカフェへと向かいながらアウルスについて話した。博臣さんは毎年欠かさず選手名鑑を買うほどのプロ野球好きではあるものの、球場に赴くこと自体はそう多くないので、選手個人の応援歌なんかは分からないという。 「すずこさん、アウルスの公式球団歌は知ってます」 「はい。『燃えよ、梟軍団!』ですよね。一人でいるとよく口ずさんじゃいます」 「わあ、分かります! じゃあ、こっちは今日一緒に歌わなくちゃですねー」  目を合わせようとしてくれているのか、それともこちらの反応を確認しているのか。  歩きながらであろうと、博臣さんはこまめに私を見てくれる。  その眼差しは、気を抜くと骨抜きにされてしまいそうなほど甘い。  最初はプロの気配りに感心していた私だけれど……次第になにかがおかしいと気付く。
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