一章 すずこ

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 再び歩き出した私たちは、これまでとは打って変わって静かに話した。 「俺、甘いものすごく好きなんですよね。パンケーキってお腹に溜まるから、今日は昼飯抜いてきました」 「本当ですか? 私も一緒です。二段重ねだから、お昼を食べちゃうと絶対に入らないですよね」  これはこれで楽しいのかもしれない。  そんなことを思い始めていると、博臣さんが「あっ」となにかを指差す。  その先にあったのは、いつも行列が出来ている人気ケーキ店だった。季節のタルトを売りにしていて〝芸能人御用達〟の言葉とともにメディアで紹介されることも多いそこは、りっちゃんが勤めているお店の系列店だったりする。 「あそこ今日は人が少ないですよ」  確かに今日は二組しか並んでいなかった。  私もケーキは大好きなので、一瞬だけ心を持って行かれそうになる。  しかし、 「でも、今日はパンケーキがいいです」  きっぱりと言い切った。 「パンケーキの気分ですか?」 「それもあるけど……私、ケーキは良いことがあった日しか食べないって決めてるんですよね」 「良いことがあった日?」  繰り返す博臣さんに、私はうなずく。 「はい。お誕生日とか、お仕事で嬉しい結果を残せたときとか。ご褒美感が増すと、なおさら美味しくなるから」 「なるほど。こだわりですね」 「まあそう言いながらも、友達からもらったり、仕事の打ち合わせでお店に連れて行ってもらったときは遠慮なくいただいちゃうんですけどね」 「でも、良いこだわりだと思います。じゃあ予定通りパンケーキのお店に行きましょう」 「はい」  並ぶ気満々でいた私だったが、目的のカフェも今日はさほど混んでいなくて、五分ほど待つとあっさり中に入ることが出来た。やや拍子抜けしつつも、人生というのはこういうことの連続だよなぁ、と思ったりもする。なにはともあれ、食べたいと思ったものにありつけるということは純粋に嬉しく、心は弾んだ。  ……ところが席に案内され、いざメニューを開くと、頭を抱えてしまった。  色とりどりのパンケーキはどれも美味しそうで、目移りしてしまったのだ。こんな機会はなかなかないと思うと、なおさら大切に選ばなくてはならない気がする。  そんな私を見かねてか、博臣さんは優しく提案してくれた。 「俺、好き嫌いとかないんですずこさんが好きなの二つ選んでください。シェアしながら一緒に食べましょう。あ、そういうの苦手だったりしますか?」 「……苦手じゃないです」 「じゃあ、どうぞ」  その気遣いに触れたことで、私は「ああ」と自己嫌悪に陥った。  家を出る前はあれだけ好き勝手やるつもりでいたのに、いざデートが始まると普段とそう変わらなくなってしまっている。背筋を伸ばした私は博臣さんの言葉に甘え、気になっていた、いちご味とチョコバナナ味のパンケーキを選ぶのだった。  ふわふわのパンケーキは焼くのにも少々時間がかかるという。  ここで私は今度こそ、鞄の中からお金の入った白封筒を取り出し、そっと博臣さんのほうに差し出した。 「改めて、今日はよろしくお願いします」 「はい、こちらこそ。キャンセルしないでくれて、本当にありがとうございます」  過剰な恭しさなどは見せたりせず、彼はとても自然にそれを受け取り、自分の鞄へとしまう。 「金額の確認、しなくていいんですか?」 「するのがルールですけど、すずこさんそういうせこいことしなさそうだし」 「それは……なんというか、どうも」  こういうことは他の客にも言っているのだろうか。  素の博臣さんは演技をしていたとき以上に、ずっと心が読めない男だった。  しかし傍から見て、これが金銭の授受だと気付く人はいないだろう。慣れているというか、そのスマートさに私は感心する。とにかく、お金を無事に渡せたことで肩の力はもう完全に抜けた。  改めてその顔をまじまじ見てみると、なんですか? と彼もまた首を傾げ、こちらをじっと見返してくる。そういった些細な仕草ですらも色っぽいのだから、博臣恐るべしだ。  まさか、こんなに格好良いレンタル彼氏とデートをする日がくるなんて。  せっかくなので、とりあえず気になっていたことは遠慮なく聞いておこう。
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