一章 すずこ

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 ***  梅雨入りを目前に控えた、とある平日の昼下がり。  私たちは出版社の近くにあるカフェのテラス席にいた。木漏れ日を浴びながら、優雅に次作についての意見を交わし合い——なんて言えたら、どれだけ良かっただろう。 「売上が落ちてる、ですか」  確認するように言うと、佐久間さんは普段となにひとつ変わらぬテンションのまま「そうですね」とうなずいた。  突如突きつけられたシビアな現実に、自分の表情が強張っていくことが分かる。 「今はまだ大丈夫だけど、これが続くとやばいです」 「やばいって、具体的にどうなっちゃうんですか?」 「うーん、森野さんには『キミトキ』を生み出したという功績があるんで、切られることはないと思います。ただ、じわじわと仕事が減っていく……かも?」  かも、に合わせて三十代半ばの男は首をこてんと傾けた。  緩やかなパーマのかかった茶色い髪、ブランドロゴが大きくプリントされた派手なTシャツ。話し方や仕草、髪型に服装だって彼は自分に似合うものをよく理解していると思うし、この年齢になってもそれを貫くだけのタフさだって持ち合わせている。  デビューからの付き合いである担当編集のこういったところは嫌いじゃないけれど、真面目な話をするときくらいはさすがにもう少し落ち着いてほしい。 「私、専業だから仕事が減ったら困ります。やっぱり、路線変更したほうが良いんじゃないですかね?」 「そろそろかなーとは俺も考えなくはないですけど……。っていうか森野さん、専業にこだわってるけどなんか他の仕事もやってみたらどうです? 新しい世界に飛び込んでみたら、小説に使えそうな良いネタだって見つかるかもしれませんよ」  それは絶対に嫌だと、これまでに何度も伝えてきた。  なのに彼は定期的にこの話をしてくるのだから、厄介極まりない。 「せっかく美容師免許持ってるんだし、美容師がもう嫌ならまつエクとかさ。あれだって免許がないと出来ないらしいじゃないですか」 「佐久間さん、お詳しいですね」 「前にマッチングアプリで会った女の子がアイリストだったんですよ。美容学校出身だって聞いて、森野さんと一緒じゃんって」 「なるほど」  確かに私は美容学校出身で、美容師免許も取得している。  卒業後は一度美容師にまでなったけれど、そう長くは続かなかった。  もともと美容師という職業に対して特別な思い入れがあるでもなく、親戚が美容室を経営しているという理由だけで、なんとなく美容学校への進学を決めたのである。そんな人間が、あんな苛酷な職業を続けられるわけがなかった。  ザ・体育会系といった感じの厳しい上下関係、朝から晩までほぼ立ちっぱなし肉体労働。私が働いていた店は休みが週に一度の月曜日だけだったし、なんならその休みですら講習会で潰れることも少なくなかった。おまけに薄給。  こういった試練を乗り越えて人は成長するのだろう、と何度も自分に言い聞かせはしたものの、結局体調を崩したことを機にあっさりと辞めてしまった。 「まあ元美容師とはいえ、私が働いていたのは超一瞬なんですけどね」 「超一瞬だろうと働いていたなら、それはもう立派な元美容師です」 「そうなのかなあ」  しかし前職の話になると、どうにも肩身が狭くなる。  この話はもうやめたい、という意思表明として溜息交じりに目線を落とすと、テーブルの上に置かれた自著が視界に入った。私の通算九作目となった本だ。頑張って書いたのに、売れ行きが良くないんだなぁ……と思うと、なんだか申し訳なくなってしまう。   
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