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日本人なら誰でも桜が好きだと思わないで欲しい。毎年毎年、窓の外でうるさく舞うピンク色に嫌気が差していた。食べたら甘酸っぱそうな匂い、意図せず視線を奪われていく人間たち。爛漫でたまるか、どこに逃げても癒しとして崇められているソレ達よ。特に虐められた記憶はないが、この名前が嫌で堪らなかった。サクラ。日本人だからと安直に付けられた、私を表す固有名詞。
街中に自分の名前が溢れてみろ、国を背負わされてみろ。本来だったら私もアレらを癒しとして堪能できただろうに、それこそ日本の代表的な行事をひとつだけ捨てる気持ち、誰にも零したことはないけれど。国民がホワホワと気の抜けた顔、はたまたやる気に満ちた顔をしていくにつれ、私は新学期早々鬱々とした表情しかできないのだった。
捻くれた子供だった自覚はある、でもそのまま成長していくとは思わなかった。どうせ私はサクラですよ、皆様を盛り上げる事に徹しましょう。主人公となるあの樹木を恨むせいで、まさか自分を脇役にしか思えないなんて、とんだ人生だ、人だぞ私は。
そんな私に転機が訪れる、桜の舞う新学期、知らない名前の土地から引っ越してきたという彼女。
瞳と名乗ったその転校生は、生まれつき目が見えないのだった。
瞳という名前なのに盲目という、想像を絶する安直さで背後の笑い声を気にする人生を過ごしてきた彼女のことを、気に掛けずにはいられなかった。クラスメイトから友人へ変わっていくうちに、不思議と惹かれていったのは、彼女が毎年の暴力的な花弁の雨を、渦を、壁を知らなかったのも理由の一つかもしれない。
手を繋いで過ごすうち、彼女にもっと自分のことを知ってもらいたくなっていく。脇役じゃなくて、彼女の生活の主役になりたかった。笑みは絶えず日々積もり、愛しい楽しい思い出で季節が埋まっていく。
「桜だけ、音が違うんだよ」
彼女と過ごす2度目の春に、宝物を渡すような声色で囁かれた。
「…何の音?」
「落ちる音って言うのかな、風が吹いた時。舞うとか散るとか言うけど分からなくて。でもね、降ってくる音が、すごく特別なの」
すっかりぬるくなった水筒の緑茶が、思ったより渋くなくて不思議な心地がする。わざわざ目を瞑ってまでこの樹木を意識したことがなかった。彼女の唇が、風の形が分かるのだと灯す。その時々の空気の優しさが伝わるのだという。
「桜の話、桜に言うの、なんか恥ずかしいね」
少し頬を染めたのか、花びらが陽に透けた影なのか、彼女の横顔は春の妖精のように可愛らしかった。
あんなに嫌いだった新しい季節が、貴方によって好きになっていく。私の人生を変えてしまえる尊さが、堪らなく愛しかった。
「みんな桜の花が好きって言うから、私の好きが特別だってあんまり分かってもらえなかったの。桜はね、特別なんだよ。私にも優しく降りかかってくれるの、そこにいるだけで柔らかいいい匂いなの」
桜と一緒だね、と呟かれる前に、彼女の薄い瞼に唇を落とした。
あなたの特別になりたい。みんながあなたを好きだというけれど。あなたはみんなを好きだと笑うけれど。
あなたの特別になっているこの花が、やっぱり少し恨めしかった。
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