月影まとえば

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月影まとえば

 満月の夜に亡くなった藤川は、新月の夜に蘇った。  その夜、ぼくはいつものように雑木林の斜面を登り、展望台へとたどり着いた。そこはこの町で一番空に近い場所で、ぼくが所属する天文部の活動拠点だった。  携えた天体望遠鏡を肩から下ろす。ふいごのように繰り返す呼吸が薄闇に紛れ、月が見えない十月の空へと昇っていく。 「今夜は新月だね――」  不意に、耳馴染みのある声が聞こえた。隣を見ると、藤川がぼくに笑いかけていた。その姿は半透明で、星の光を薄めたみたいな幻想的な光沢を放っていた。だけど、不思議だとも不気味だとも思わなかった。 「柚原くん、天体望遠鏡デビューだよね? 屈折式の安物でも、月だけはほんとうによく見えるんだよ」  藤川が望遠鏡を覗き込みながら言った。まるで、あの夜を繰り返すみたいに。 「ねえ、今夜から月が満ちるまでの間、毎晩一緒に観測してみない?」   月がきれいな夜に生まれた子供だから、月子。天文部に入部したての頃、自分の名前の由来を語った藤川は、どこか自慢げだった。  天文部はぼくら二人と三年生の部長を含めた三人しか在籍していなかった。部長は受験勉強に身を入れ始めていたから、ほとんど二人きりのようなものだった。  しばらくの間は、部室で本を読んだり、天体の写真集をみたりして過ごすだけの部活動だった。興味本位で入部したぼくとはちがい、藤川は天体に対する造詣が深くて、雑談がてらに色々なことをぼくに教えてくれた。ぼくは、楽しそうに空を語る藤川の様子を見ているのが好きだった。  一年前。ぼくらが初めて天体望遠鏡を携え、展望台に登った新月の日。ぼくと藤川は、月が満ちるまでの間、毎晩観測を共にしようと約束をした。だけど、その約束が果たされることはなかった。  二度目の観測の日々は、判を押したように一年前と同じく過ぎていった。毎晩、夜八時に展望台で待ち合わせる。日が経つに連れ月が満ちていく様に焦燥を口にするぼくと、色めき立つ藤川。どこか対照的ともいえる二人のやりとり。楽しかった。まるで時をやり直しているみたいな錯覚を覚えた。  藤川の存在は、月が満ちるのと比例して実体感を強めていった。はじめは半透明に見えた姿は、上弦の月が浮かぶ頃にはほとんど生身同然のものになった。何かの拍子で手が触れ合うと、確かな体温を感じたし、はっきりとした息遣いが聞こえた。一方で記憶は曖昧で、自分が一年前に死んでいることは理解していないようだった。  藤川とのやりなおしの日々は、ぼくに以前と変わらぬ煌めきを与えてくれたが、その背後には忍びよる喪失の影が伴った。  このまま満月の夜を迎えることができたとして、その月が欠け始めたとき、藤川の存在はどうなってしまうのだろう。 「そっか、わたし約束を守れなかったんだ……」  十三日目の夜、藤川が唐突に言った。記憶を取り戻してしまったのだと、ぼくは察した。 「月がきれいな夜に生まれた月子は、満月の夜に死んじゃったんだね」  藤川がおどけたように笑う。あたりには秋の虫の声が侘びしげに響き渡っている。月は雲に隠れ、夜の帳がぼくたちを覆う。  ぼくはなんて無力なんだろう。一年前も今も、藤川の苦しみに寄り添うことすらできない。一年前の約束の日――満月の下でぼくは藤川を待っていた。待っていることしかできなかったんだ。 「……手、握ってほしいな」  藤川が静かにいった。ぼくはそっと彼女の右手に触れ、やがてふたつの手が繋がれた。なんてあたたかいんだろうと、ぼくは思った。 「じつは、何度かこうやって手を繋ごうとしてたんだよ。柚原くん、奥手っぽいから。死んでしまったのは悲しいけれど、こうやってまた逢えたなんて奇跡だよね」  ぼくは何も言えなかった。逢えてよかった、とでも言えばいいのだろうか。また逢えるよ、なんて言えるわけがないじゃないか。  こんな中途半端な奇跡が起こるのなら、いっそのこと月が満ちていくだけのこの日々を、永遠に繰り返してほしかった。  そうだ、満月なんて完成しなければいいのに。   昔から、未完成なものに惹かれた。塗りかけのぬりえ、積みかけの積み木、欠けた月――。何かが完成されるということは、その事象が終わりを迎えることだと思いこんでいた。その価値観のせいでいくつかの幸せをこぼしてしまったかもしれないけれど、いくつかの悲しみを回避できたはずでもあった。  一年前のあの日。藤川が亡くなったあと、ぼくはその考えが間違いだったと思い知った。ぼくはとっくは自分の恋心に気づいていたが、結局なにもできなかった。その初恋が実るにしても、破れるにしても、ひとつの完成により終わりを迎えてしまうことが怖かったのだ。  だけど人生、自分の意志と関係なく完成しないまま終わりを迎えることのほうが、ずっと多い。そして人は、そういうことを一生悔やみ続ける続けるものなのだ。  十四日目の夜。深まりきった秋の大気に、指先が悴んだ。  終わりを確信したぼくらに、言葉はなかった。ただ、身を寄せてあって座りこみ、代わる代わるに望遠鏡をのぞきこんでいた。満月になりきれない、未完成な月がそこにはあった。手が届きそうなくらい、すぐそこに。 「待宵(まつよい)っていうんだって」  永い沈黙が続いたあとに、藤川が言った。満月の前夜。今夜は、明日には完成される月を待ちわびる夜なのだという。愛しい人を待つ宵っていう意味もあるらしいよ、と藤川は付け加えた。 「また、待っててくれる? 今度はちゃんと、逢いにくるから……」  藤川の声が震えていた。レンズを覗く横顔に、一筋の涙が伝っている。 「楽しみだな……明日には必ず、あの月が満ちているんだよ」   展望台の手すりの向こう、藤川の傍らで名も知らぬ花が夜風に揺れている。明日の夜、月影があの花に届いたなら、藤川に告白しようとぼくは思った。
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