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彼のことは昔から気に入らなかった。
初対面の時から警戒していて、学校生活を過ごす中でいくらか話す機会があったけれど、どんな事象でも彼を嫌われせる一助にしかならなかった。
時が流れた。
学校は卒業して彼のことは忘れたつもりだったけれど、よく話に聞いていた。彼は私のことを気にかけているようだった。
私はよくあることだと思っていた。男がよくすることだと。
さらに時は流れ、何度も彼のことを聞くうちに、一度どうして彼が嫌いかを考えてみることにした。
思い返せば何かされたわけではなく、昔から自分のようにどこか大人びていた彼を同族嫌悪していただけだと気づいた。
昔の私は、周りと馴染めない自分がイヤで一生懸命取り繕って完成させた完璧な仮面でみんなと普通に話せることに安心感を覚えていた。だから、みんなと馴染むことを堂々としない彼と近づくと、私の本性がバレてしまう気がして恐ろしかったのだ。
それに気づき、一度彼と話してみることにした。
メッセージ上の様子は明るく、でもどこか気を遣っているようで、それを愉快な雰囲気でうまく隠している部分がやっぱり自分に似ていると思った。
学生時代のことや会ってなかった期間にお互いどうしていたかなど、ざっくばらんに話した。たくさんの意見や価値観についての議論をした。
話すたびに自分とほぼ同じ思考を持ち合わせていることに気がついていった。
今まで自分は周りとどこか違う、誰とも意見が合わないと思ってきた、疎外感の強い私にとって初めての体験だった。
会おうと言われて、迷った。
今の私は、将来の夢に向かって勉強中である。一瞬も気の抜けないタイミングだ。正直、余裕なんてない。
それ以上に、私は男性への信頼感が著しく低い。頼りにならない父親の影響が大きいが、これまでの男性との関わりもその信頼感の失墜の原因である。
信頼感がないと言うけれど、人間の脳とは不思議なもので、そう思えば思うほど信頼感を感じられない言動を男性の中に探そうとし、色々と試してみては最終的に信頼感がないことを自分で証明する。
その繰り返しにうんざりしていた私は、男性の会おうという言葉に疑いばかりを持つようになっていた。
結局一度目の誘いは断ったが、しばらく会話を続けるうちに、似ているどころか鏡のような彼に、私は気づくと心を許し始めていた。
思えば、これが恋の始まりならどんなに良かっただろうと思う。
でも私が彼に対して感じたことは好奇心だった。小さく愚かな好奇心。
自分によく似た彼を試したくなった。もっと色んな議題をぶつけてどこまで自分と同じか知りたくなったのだ。
私は彼と会うことにした。
私は人と出かける時に予定を隅々まで決めないと心配なタイプだ。当日は余計なことを考えず楽しむことに集中したい。行くところが決まらず時間が無駄になるのはごめんだ。
もちろん彼も予定を固めてくるタイプだ。
サクサクと予定が決まっていって、とても仕事のできる同僚とタッグを組んでいるようだった。
自然と私の気分は良くなっていた。私に声をかける男性の多くはよく言えば優しく、悪く言えば優柔不断なタイプばかりだった。君に合わせるよという優しい言葉は、私に突き放されているような感覚をもたらす。一緒に出かけるのにどうして一緒に予定を決めないんだろう。私が頑張って選んでも適当に選んでも、どっちでもいいらしい。それが悲しかったのだ。
もちろん当日の洋服やメイクも事前に決めておきたい。
色々と考えたが、ちょうどメイク道具を断捨離したせいか、ヘアメイクがイマイチ決まらない。
新しい口紅が必要だった。
口紅を選びながらふと一つの口紅に目が留まる。紫色の口紅だ。色に名前がついている商品で、「juggler」という名前だ。意味は「浮気者」。
この口紅、前から気になっていたものである。色も好みであるが一縷の切なさを込めたような名前が気に入っていた。
初めて見かけたのは一年前だろうか。その時も彼の噂を聞いた頃で、私はふとその口紅を見て彼を連想したのだ。なぜなのか分からない。ただ何となくその時から、よく知りもしない彼に危うさを感じていた。浮気というのは心の弱い人がしてしまうものだと思う。彼の危うさと浮気が繋がっての連想だったのかもしれない。
結局、その口紅ではなく、手頃で可愛らしくて似合いそうな色の口紅を選んだ。
そして彼に会う日がやってきた。
計画を立てるのは好きなのに準備を段取り良くすることが苦手な私は、当日バタバタと家を出た。せっかく買った口紅を塗るのもそこそこに待ち合わせ場所に急ぐ。
彼は車で迎えにくるらしい。
同級生の中で早く免許を取っていた私は、誰かを隣に乗せることはあれど誰かの隣に乗ることは初めてだった。
柄にもなく助手席に憧れていたのだが、座ってみると案外何も感じなかった。
久しぶりの挨拶も思っていたよりもぎこちなさはなく、車が発進した。
私は他人に心を開いてもらうためには自分がまずは心を開かないといけないと日々思っている。
しかし自分の心を開いて話すというのは難しく大変なことだ。そこで私は、他人に話していいことを細かく分けている。どうでもいい人にでも話していい内容、信頼してないと話さないこと、少し信頼してるならまぁ喋ってもいいなと思える話。
話す相手によって打ち明け話の内容を変えることで、自分の負担は少なくしつつ心を開いてるように見せかけるのだ。
初めこそ少し緊張していたが、そのうち私も調子づいてきた。うまく打ち解け始めた。
自分が父を嫌悪していることを話す。彼は母を苦手なようだ。
すぐに分析するのは悪い癖だが、私たちは異性の親に苦手意識があり、そのせいで異性に対しての感情が歪んでいるようだった。お互いそれはハッキリと口にしなかったが、窓の外を流れる景色を見ながら少しずつ話す中で、何となく悟りあった。
彼はその感情を受け入れてるようだった。自分のことも好きらしい。
私も少し前まではそうだった。仕方ないことだと考えていたし、少しくらい歪んでいたところでそれを隠すことに長けているので問題がないと思っていたのだ。
でも今は違う。父への嫌悪を消化しないと私は一生まともな恋愛ができないと思う。そして不幸せな選択肢を選び続けるのだろう。だから、私は男性への不信感を克服したいと思っていた。
彼と私の小さな違いだった。
車の中や目的地である公園を散歩しながら、私たちはたくさん話をした。こんなに楽しくおしゃべりをしたのは久しぶりだ。普段は余計なことばかり気になって、気を回して、気づけば疲れている。
私が色々と気を回さなくても彼も気を回してくれるという安心感に身を任せた。
自分と似ている彼だから、信頼したかった。そうすることで、私は私を信じてあげる擬似体験ができる。
親との関係に問題のある子供によくある事象だが、私もそれに漏れず自己肯定感が低い。最近ようやく自己肯定感の低さからくる弊害が世間に認知され始めているが、私の自己肯定感の低さは生まれつきと言っていいほど筋金入りだ。
肯定感を高めるために様々なことをしたが、そのどれよりも彼を信頼するという方法は効果があった。
他人への依存は肯定感の低い人間ほど陥りやすいという簡単な事実を忘れるほどの効果だった。
彼はハッキリとは言わないものの、面倒な女に好かれるたちらしい。
彼自身が愛に飢えている部分があるのだろう。
残念ながらそういう部分もよく理解できた。
私もダメな男に好かれやすく、好きになってしまいやすい。そして完璧な愛がどうしようもなく好きなのだ。
だが私はそこから抜けようと思っていた。強くたくましい女性に憧れていたし、意見を言える自分はすごく輝いていると、ようやく最近思えるようになったからだ。
彼は、ヘラヘラしている女性が好きだと言った。か弱くて1人じゃなんにもできない女の子。自立している女性は自分の存在価値を感じられない。そう言った。
笑ってしまった。少し前の自分とおんなじだ。結局、私たちは可哀想な誰かを使って自分の価値を感じるのが好きなのだ。
まだ遊んでたいな。
ご飯を食べている時、彼は小さく呟いた。私がしばらく彼氏はいらないと話していた時のことだった。
私たちまだ若いんだから、遊びなよと私は言った。
この呟きは私が留意すべきものだった。
私は、楽しさにかまけて普段はよく働く観察眼を鈍らせてしまった。
彼はとても楽しそうだった。
私の顔がとても好みらしい。確かに好みの女が隣にいたら嬉しいだろう。
そして私の話も面白いと言って楽しそうだった。
私は、人の表情の小さな変化を見逃さないことにかけて自信がある。
物心ついた時から、自分が周りとズレていることを隠すために身につけた、他人の感情を観察するその能力は、ちょっとした特技に値するだろう。
だからこそわかった。
彼はとても楽しそうで、無邪気だと。
私と同じなのだ。
驚くほどにそっくりな人間といると、自分を肯定してあげられる。
それが嬉しいのだ。そして私も楽しそうな相手を見ると嬉しかった。
嘘はひとつもなかった。
帰り際、彼はしきりに寂しがった。
寂しいなと何度も言い、冗談でこのまま攫いたいなんてぬかし始める。
まるでこれから先会えなくなるみたいな言い草に、私は笑って返しながら、心の中で少しうんざりした。
確かに楽しかった。
私の忙しさのせいでしばらくは会えないかもしれない。
でも一生の別れってわけじゃない。なのに、こんなに寂しいと連呼して、きっと色んな女に言ってるのだろうと軽く考えた。
母との関係がうまくいってない男性にありがちである。女を留めておきたいのだ。
お生憎様。私はその手には乗らないと、心の内でせせら笑った。
楽しいことだけを共有出来れば十分だ。私の肯定感も上がってくれて一石二鳥である。
だからバイバイととても機嫌良く別れた。
その夜、彼は私といると自分を偽らないでよくて済むとメッセージを送ってきた。
それはそうだろうと1人納得した。何せ、自分と自分が会ってるようなものなのだ。楽に決まっている。
可愛かったと顔が好みだと色々と言われても、なぜか素直に受け取れた。
謙遜しなくてもいいし、お世辞だとしても私の気分が良くなることに変わりはない。だから、相手がどう言おうと関係ないと自然に思えたことが、嬉しかった。
夜。ひどい悪夢を見た。
女の子たちに責め立てられる夢だ。言われのないことを言われ、イライラとする夢。
次の日も次の日も見た。
4日続けて悪夢を見て、私はさすがにその意味を図りかねた。
夢占いをしてみることにした。
結果は、彼とは関係なさそうだった。
彼のことではなく、今まで押さえつけてきた自分を解放したくて見た悪夢のようだった。
ずっと、もっと素直になりたいと夢見てきた。
楽しい時に楽しいと笑い、怒っている時に感情のままに怒りたかった。
彼には、それが出来た。私はもう強くなれたんだと思った。
このまま彼とのこの鏡のような関係性を続ければ、いつか鏡がなくても自分の気持ちが素直にわかる様に、表現できるなれると胸を躍らせた。
会ってからちょうど10日が経った。
価値観が似ていると楽だよねと何度目かのそんな話をしている時、彼が唐突に告げた。
もうすぐ結婚するのだと。
慌てた。驚いた。
普通に誰でもそういう反応になるはずだ。
それからの私の対応を私はきちんと褒めてあげたい。
怒った。
とても冷静に怒りを表した。言葉でちゃんと伝えた。
私たちの関係に名前をつけるとしたら、鏡である。好きだとか愛だとか恋だとか、そんな可愛くて単純なら良かった。せめて友達くらいのポピュラーな名前にしておきたかった。
だけど、私はあまりにも鏡とのおしゃべりにのめり込みすぎた。
恋愛でも友情でもない、難しいことを考えなくても済む便利さが良いのだと喜んでいた。
しかしその関係のせいで、私はややこしい怒りを抱えることになった。
浮気ではない。
そして私の失恋でもない。むしろ失恋よりもひどい。
私のようやく踏み出した一歩を、無駄にされた気分だった。
ようやく踏み出したことを彼は知らなかった。だからこそ起こったことだった。
恋なんかより大事なのだ。
男性への不信感を払拭することや、自己肯定感を高めることは。
私の大きな大きな課題で、苦しくても自分で乗り越えたいと思っている大事な壁なのだ。
それを汚された気分で。
彼には彼の言い分がある。
結婚したらもう女の人と食事したり会ったりしたらダメなのかと。
それに対する意見を私から聞いてみたかったのだと。
彼は前に言っていた。
結婚相手は愛している必要があるけど、一番好きである必要はないと。
彼女がいても他の子から誘われたら行ってしまうと。
これを聞くと大抵の女性は怒り心頭だろう。
ただ私も同じことを男の人にしてしまう可能性があるといつも思っていた。
私たちは不安なのだ。一番好きな相手に嫌われた時の保険を用意しておくのは、私たちの素晴らしい常套手段だった。
だからその時は、ふーんと聞いていた。恋愛観なんて人それぞれだ。ただ彼と付き合う女性は可哀想だなと。それだけだった。
しかし、そんなことなど吹っ飛ぶほど、私は怒っていた。
彼が浮気を自分に許している最低男だからではなく、彼の彼女が可哀想だからでもない。
私は私のために怒っていた。鏡を壊したいくらいに。
あまりにも失礼だった。浮気よりも失礼だ。もはや浮気であれよとすら思っていた。
学生時代から気が合いそうと思っていて声をかけた。それ以上でもそれ以下でもない。そう言うが、それ以上でも以下でもない鏡に独り言を言いたかったのだろうか。
本物の鏡に向かって一人で喋ったらいいのに。
私と彼の大きな違いが見つかって、それは鏡にヒビを入れた。
色々と不満はあったが、彼の楽しそうな顔が純粋なものでなかったのを見抜けなかった自分にショックだった。
私の贔屓目だったのならそれはそれだが、だとしてもあれが違うなら彼は大した演技派である。
違う、本当に楽しいと思っていたと彼は言うだろう。でも言わなかった。飲み込んだのだろう。何を言っても言い訳がましく聞こえることを彼が分からないはずがない。私がまさにそう思っているのだから。
初めからひび割れた鏡だったのかもしれない。
昔、私がどこかで捨てて割れてしまった鏡。
捨てた鏡をまた拾ったのは、きっときちんと粉々にしないといけなかったからだ。
合わせ鏡みたいになってると彼は言った。
私は彼を鏡だと言ったことはないのに、同じ言葉を使っていることに笑ってしまう。
彼にとって私はどんな鏡だったんだろう。
残念なことに彼がどう答えるかすらも、何となく分かりそうな気がする。
そんなのは嫌なので、分からないやとそっぽを向きながら、ひび割れた鏡は踏みつけて粉々にしようと思う。
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