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壮介がフミカをそっと後ろから抱きしめると、気を逸らそうとフミカは歌いだしました。
それは、壮介が一番好きな『松の声』という歌でした。
透き通ったフミカの高音が、栗花落の雫を伴奏にして旋律を美しく歌い上げていきます。
「壮介さん……」
フミカは、何度、この場面を回想したことでしょうか……。
愛する人がいました。愛する壮介は、出張髪結いに出かけた日、大雨で氾濫する川で溺れて帰らぬ人となったのです。
帰りが遅いのに胸騒ぎを覚え、役にも立たない蛇の目傘を持って、土砂降りの中飛び出したフミカが家から1町ほど行ったところに流れる荒川の支流に辿り着くと、男たちが叫び声をあげながら川岸に壮介を引き上げているのが目に飛び込んできました。困っている人を放っておけない男気にあふれた壮介は、過って川に落ちた子供を助け岸に放り投げたあと力尽きてしまったのです。側で壮介に助けられた子供が泣き叫んでいました。
フミカは眼前に世界が崩れ落ちていくのが見えました。
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