フミカが選んだ男

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 塀の隙間から覗き込むと、縁側に座っている女が見えました。黒髪を無造作にまとめあげ、着物の衿を抜いて白いうなじを惜しげもなくさらし、細く長い首をかしげて、歌っているのです。年のころは、23~4でしょうか。黒目がちな瞳は潤んでいるように見えました。  あやかしは人からは見えません。実体がない妖怪だから。しばしの観劇だとばかりに、彼女から見えないことをいいことに縁側の正面にどかっと座り、庭の真ん中で美しい女を眺め、女の美声に耳を傾けました。 「壮介さん、『松の声』、歌うわね。♪ああ、夢の夜や♪」  そんなことを呟いて、その美しい女は、ある明治の終わりの流行歌を歌いあげました。あやかしも川辺の家のラヂオから流れてくるのを聞いたことがあります。  女の歌は余りに心地よいものでした。あやかしは、春の鶯の声を耳に川で漂いうとうとする時のように、気持ちよく耳を澄まして聴きいっていました。  美しい声に聞き惚れ、しばし、彼女の美しいかんばせを眺めたあと、あやかしは、耳の保養、目の保養だ、大した眼福だったなと呟いて、そこを後にしました。  
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