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これはまだ携帯電話がない時代の、お話。
「マツザワですが、伝言お願いします」
たまにかかってくるその電話は、フロントで有名で、声の主は男性だ。
関西にあるこのホテルは、海のそばにあり一流として名高い。モダンで落ち着いたロビーは宿泊客だけではなく、待ち合わせや休憩する一般客も利用している。待ち合わせ利用客の中には時間に遅れそうな時、フロントに電話して本人を呼び出す客もたまにいる。
ただ、冒頭の人物は呼び出しではなく、『伝言』を希望していた。
かかってくるのはマツザワという男性がヤマウチという女性に伝言を、というものが多い。たまに女性から男性あてに伝言がはいることもあるのだ。
約一年前くらいからこの電話が入るようになり、はじめは他の電話と同様に本人を呼び出しをして電話をつなぐようにしてたが、あまりに頻繁に電話が入るため、名前も姿もフロント係が覚えてしまったので、いつのまにか伝言サービスまで受けるようになっていた。
品のある二人でどう見ても恋人同士。歳の頃は三十代かなあと、フロント係の間で噂になっていた。はっきりと年齢が分からないのは、二人とも待ち合わせはするものの、宿泊を一度もしたことがないのだ。
「少し遅れます、とお伝えください」
マツザワ様の少し低めの声。心地よい上品な声だ。
「承知いたしました」
ゆっくり、電話を切ると俺はロビーの奥で単行本を読んでいる女性、ヤマウチ様に向けて足を進めた。
「ヤマウチ様」
声をかけられ、手にしている本から顔を離し、女性は俺を見た。
「マツザワ様からご伝言でございます。少し遅くなられるそうです」
「あら、仕方ないわねぇ」
ふぅ、とため息をつくと本をテーブルに置いた。
「いつもありがとう。このロビーは居心地がいいからつい、長居しちゃうわ」
「恐れ入ります。読書されるのに、ここは最適ですね」
「そうね…ああでもこれも読み終えてしまうの。あなた、よかったら読む?」
「え、私が?」
「マツザワから貰ったんだけど、わたしには少し退屈で」
そのまま本を手渡そうとしてきたので俺は困惑した。恋人からもらった本を譲られるわけにはいかないし、トラブルのもとになることは明白だ。
「申し訳ございません。私がいただくわけには」
丁寧に断りを入れようとすると、女性はうっすら微笑む。
「大丈夫よ。それにこの本はあなたにピッタリ。穏やかな三ノ宮さん」
ネームプレートを見たのだろう。名前を呼ばれ、俺が驚いていると彼女はもう一冊の本を鞄から取り出す。
「私はこちらを読むから。読書の邪魔をしないでいただける?」
そう言われたらもう、引き下がるしかなかった。俺は御礼を言いつつ、会釈をして本を持ったまま踵を返した。
カウンターに戻りため息をつく。本はロッカーにいれて業務を始め、数十分後。回転式の扉からロビーに入ってきたのは黒髪をオールバックにしている、トレンチコートを着た長身の男。マツザワ様だった。俺はさっきの本のことがあり、顔を背けそうになる、
彼はヤマウチ様の元に行く前に、フロントカウンターに立ち寄ってきた。
「伝言ありがとう」
その一言を、毎回かけてくる。そして彼女の元へと向かうのだ。
「男でも惚れるよな、あれ」
隣にいた同僚の北野が、ポツリと呟き苦笑いする。先に一言わざわざスタッフに礼を言ってくるなんて、と。
「本当にな。そりゃ彼女も惚れるだろうな」
マツザワ様が声をかけると、ヤマウチ様は少しだけ微笑んで本をしまった。
彼女にプレゼントした本が、まさかなんのゆかりもないホテルマンの手に渡ってるなんて、夢にも思わないだろう。
そのまま二人はロビーを出て行く。北野と俺はカウンターから会釈をして、二人を見送った。少しだけ胸がチクチクするのを感じながら。
それからも二人の逢瀬は続いていたある日。
ヤマウチ様からの電話を俺は受けた。
「ヤマウチですが、伝言をお願いしたいのだけど」
「承ります」
「マツザワに、もう行けなくなったからと伝えてくれるかしら」
その言葉にドキッとした。これは別れ話なのか?俺は咄嗟に言葉が出せないでいると、彼女はさらにこう言った。
「そう言っていただけたら、分かるから。三ノ宮さん、長い間伝言ありがとう。皆様にもお伝えしてね?」
「あ、あの…」
俺の返事を待たず、彼女は電話を切り、あとはツーツー、と機械音が流れた。
来るなと祈っていたものの、むなしくもその人は来てしまった。回転式の扉から見えたのは黒髪オールバックの彼。
俺は生唾を飲み込み、マツザワ様が椅子に座ったのを見計らって、近づいた。
「マツザワ様」
「はい。ああ、伝言かな?」
落ち着いた声に涼しげな視線。一重の切長の目。穏やかな彼の顔を見ながら、俺は拳を握り、意を決して、ヤマウチ様の伝言を口にした。
「はい。ヤマウチ様から『もう行けなくなったから』と」
その言葉を聞き、少しだけ目を見開いた彼。だがすぐいつもの顔に戻る。
「そうか、来れないんだな」
ポツリと呟いて、俺の顔を見た。
「三ノ宮さん、ありがとう。それとあの本、読んだ?」
あの本とは、ヤマウチ様にいただいた本のことだろうか。何故彼が知ってるんだろうか。
「彼女が『あの本が似合いそうなホテルマンにあげた』と言っていたから。きっと君かなと思って」
俺は驚いて言葉が出なかった。まさか本人に言っていたなんて。
「…すみません、頂戴しました」
「やはり三ノ宮さんだったんだ。何で謝るの?それで感想は?」
その本は、島で暮らす犬と老人の話で、大きな事件がある訳でもなく、日常を描いたものだった。淡々と描かれていてその穏やかな作品を、彼女は退屈だと言っていたが、俺には合っていた。
「俺は好きです」
そう答えると、マツザワ様は満足そうに笑う。その笑顔に何故か胸が熱くなった。
「実は今日、彼女とディナーを食べに行く予定にしてたんだ。キャンセルするのはもったいないから、三ノ宮さん付き合ってくれないかな」
「…は、はい?」
予約していたディナーの場所は、このホテルの最上階にあるレストランだった。客と対峙している俺を、ウェイトレスがチラチラ見ていた。私服とはいえ何故ここにフロント係がいるのだろう、と思っているに違いない。
食前酒を口につけ、運ばれてきた前菜を食べながら彼はこう言ってきた。
「多分、皆さん勘違いされてると思うんだけど。彼女…ヤマウチとは恋人ではないからね」
思わずスプーンを落としそうになり、俺が慌てているとマツザワ様はクスリと笑った。
「いとこなんだ。彼女のご主人は多忙な人でね。一人暮らしに近くて、寂しいと言っていたから、僕がたまに相手をしていたんだ。僕には特定の相手がいないから」
前菜を平らげて、ワインに口をつける仕草がさまになっている彼を見ながら、俺は二人が恋人ではないということに安堵した。それなら俺があの本を持っていても、なんらおかしくはない。
「もう行けなくなったからというのは…」
差し出がましいかなと思いつつ、おずおずと聞くと笑顔でこう答えた。
「彼女のご主人がイギリスに行くことになってね。それが決まったら、彼女もついて行くと聞いていたから。伝言を聞いて、彼女も行くことにしたんだな、と」
そんなことを伝言で済ませるとは、なんと潔いというかスマートというか…俺は思わず苦笑いする。
「彼女はこのホテルのロビーが大好きでね。インテリアも雰囲気も。スタッフの皆さんも素晴らしい。いつもここを使わせて貰ったのは、そういう理由だったんだ」
「そうですか。ありがたいお言葉です」
「もう彼女は来なくなるけど、これからも僕は来てもいいかな」
「もちろんですよ」
「ありがとう。また君に会えると思うと嬉しいよ」
「…え?」
彼は俺の言葉を聞こえないふりをしたのか、もう一度ワインを口につけた。
それから、彼から電話がかかることはなくなった。だけどマツザワ様は相変わらずこのロビーに現れて、お決まりの場所に腰掛けて読書をしている。
静かな時間がながれていき、俺は彼に近づく。
「今日は何を読まれてるんですか?」
「秋の日を題材にした話だよ。あと少しで読み終えるから、三ノ宮さんにあげる」
本から目を離し、微笑む。
「もう五冊目ですね、マツザワ様から御本いただくのは」
「そんなになるんだっけ」
ロビーの隣にある喫茶コーナーから漂うコーヒーの香り。今日はコーヒーを飲んで帰ろうかな、と彼は立ち上がり、ふと俺の耳元で囁いた。
「じゃあ、今晩、いつものところで待ってるから」
おわり
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