孤月に輝くノクターン

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『……もしもし』 『おっ、明日歌?どうしたんだ?』 『どうしたもこうしたもないわよ!あんた、今どこにいんの!?』 『んあー……いつもんとこ』 『だと思った!今からそっち行くから、あったかくして待ってなさい!』 『うーい』  全く、この幼馴染みは手がかかる。ブツンと通話を切ると、クローゼットから乱暴に防寒具一式を取り出し、部屋を飛び出した。ぐるぐるとお気に入りのマフラーを巻き付け、下ろしたてのコートを羽織り、淡い灰色の手袋をはめながら階段を駆け下る。イヤーマフは置いていくことにした。代わりに、私の愛するフルートを手に取った。昔、誕生日に買ってもらった高級品だ。全国の舞台で観客を魅せ、高校生になった今でも活躍している一品である。 「あら、明日歌?どこへ行くの?こんな遅くに」 「ごめん母さん。涼夜の発作。すぐ戻ってくるから」 「そうなの。気をつけてね」 「はーい」  母さんは、そういうところ束縛をしない。もう10時なんだからやめなさいとか、補導されるわよとか、そんなことを言わないのだ。その穏やかで緩やかな気性に惚れたのだと、酔った父さんがしきりに話していた。ぶっちゃけ、わからなくもない。  一歩外へ出ると、凍った夜気が頬を打った。思わずぶるっと身震いをする。冬の夜は寒い。発作がなければ、今頃暖房の効いた部屋でぬくぬくしてたのに、と幼馴染みをこっそり恨んだ。首を竦め、さむっ、さむっと足踏みしながら、自転車に跨った。  大してありがたくもない風を感じながら、坂道を下る。吐く息が白い。ちらりと夜空を見上げれば、星1つもない漆黒の中に、玲瓏たる孤月が威風堂々と輝いていた。あまりの輝きに、月が白く見える。冷気が空を洗い流したのだろう。満月は冴え冴えとして、美しかった。  さて、そろそろだろう。くいっと曲がり角を曲がったあと、自転車を飛び降り、公園を横目にがちゃん、と自転車を立てる。  ……幼馴染みが発作を起こしたときに来るところは、いつも決まっている。  幼い私たちが見つけた、秘密基地だ。 ***** 「遅かったなー、明日歌。鼻真っ赤だぞ」 「毎度毎度えらっそうに……」  盛大に顔を歪めても、目の前にいる幼馴染みこと涼夜(りょうや)は、笑顔を微塵たりとも崩さない。あったかくしろと言っただけあり、涼夜は毛布を被り、マフラーを巻き付け、イヤーマフをつけ、厚着で体育座りして、身を縮めていた。暖房さえ入れてない__入れられない冷えた廃屋の中。天井に吊るした懐中電灯のスイッチを入れ、コートのポケットにあったホッカイロを投げて寄越し、どかりと胡座をかく。 「あんたのお母さん、ヒス起こしてたわよ。わざわざ家電かけてきて、うちの息子誘拐したんだろうって、うるさいのなんの」 「あははっ、ごめんなー……警察沙汰なってないといいけど」 「よくわかんないけど、家出だと警察動かないんでしょ?心配しなくて大丈夫よ、多分」 「ん、なら良かった」  へにゃりと、どこか諦めたように笑って、膝に頬を(うず)める涼夜。 「……今度は、何したのよ」 「定期テストで、ひどい点数取っちって、母さんに死ぬほど怒られた」 「点数は」 「82点。数学」  こんなことだろうと思った。溜め息をついて、涼夜の背中にもたれかかる。  涼夜の家は、極端なほど学歴主義だ。県トップレベルの進学校合格は当たり前。テストでは90点以上取らないと近所迷惑になるほど怒鳴られ、勉強以外の趣味は認められない。親ガチャを外した、典型的な憐れな子供なのである。 「没収だって、ウォークマン取られて、捨てられて。もうわけわかんなくなって、家出してやるって思って……気づいたら、ここにいたんだ。ごめんな」 「……別に、今更でしょ」  でもまさか、ウォークマンを取られるとは思っていなかった。涼夜が中学生のときに、五教科合計500点という異様な数字を叩き出して、親がご褒美として買ってくれたもののはずなのに。  __涼夜が守った、唯一無二の趣味なのに。 「CDは取られなくて、よかったわね。……パソコン持ってくればよかった」  リビングのテーブルに積み上がったのは、涼夜が小遣いを必死に貯めて買ったCDの数々。ボカロやヒップホップなどではなく、交響曲や協奏曲など、本格的な音楽の世界に存在する楽曲だ。万が一にも親に没収されることのないよう、秘密基地という名の廃屋に匿っておいて正解だったみたいだ。 「そこまでしてもらっちゃ悪いから、いいよ。……代わりに、明日歌のフルートが聞きたい」 「ソロコンで全国行ったフルートを聞きたいって?高くつくわよ」 「言うと思って、買ってきた」  とん、と取り出したのは、自動販売機で買ったのであろうココアだ。触ってみれば、まだ温かい。好みを熟知してやがる。おまけに、こんな寒い日とくれば、受け取らない理由はなかった。 「ありがと。リクエストは?」 「夜想曲(ノクターン)第5番。お願い」 「あんたそれ好きね」  フルートをケースから取り出し、我ながら慣れた手つきで組み立てていく。楽譜は持ってきていない、というかいらない。何度も何度も、涼夜が家出という名の"発作"を起こすたび、奏でてきた曲だ。  立ち上がり、チューナーの針を確認しながら音程を合わせ、軽く基礎練をする。音階やロングトーン、ウォームアップの簡単な曲等々。涼夜を待たせすぎるわけにはいかないので、本番並みに時間をかけてやったりはしない。短縮版の基礎練を終えると、涼夜に目配せし、すっと背筋を伸ばした。  夜想曲(ノクターン)。夜の静かな景色を連想させる曲。フルートという、繊細な音色が奏でるに相応しい曲だと、勝手に思っている。第5番は、ピアノでよく演奏される曲だが、フルート用の楽譜も出ている。高音トリルが難しいが、それ以外はゆったりした滑らかな曲調なので、高音トリルを自然に違和感なく取り入れることが大事になってくるのだ。  約4分。涼夜は短いといった時間、夜想曲(ノクターン)を奏でる。……この曲は、私も好きだ。疾走感のある曲より、緩やかな曲の方が好きなせいもあるかもしれない。夜の長い時間を想起させるにぴったりな曲で、綺麗で……美しい。  最後の音を丁寧に途切れさせ、涼夜を見ると__音もなく、ビー玉のように透明で、大粒の涙を流していた。演奏に集中していたせいかもしれないが、鼻をすする音なんかは聞こえなかった。恐らく、本当に自然に流れた涙なのだろう。動揺したりはしない。通常運転である。 「……ありがとう、明日歌。綺麗だった」  涙をぬぐおうともせず、唇に弧を描いている。無理に笑わなくてもいいのに、とか思いつつ、ココアのプルタブを開け、一口飲んだ。ぬるくも甘い。フルートを置き、涼夜の側にあるソファに腰掛けた。 「こっちこそありがと。気分は落ち着いた?」 「……少しは」  少し。そんなものだ、私の演奏なんて。投げやりになりながらココアを喉奥へ流し込む。ソロコンで全国行ったのは中学のときの話だし、銀賞だ。同じ部活の子達からは手放しで褒められたが、それ以来、全国へは行っていない。関東止まりだ。 (……所詮はまぐれ)  もう二度と、あの舞台に立つことはない。  。 「……なぁ、明日歌」 「ん?」 「明けない夜はない、ってよくいうよな」 「うん」 「……本当に、そう思うか?」  まだ、涼夜の涙は止まらない。堰を切ったかのように、溢れている。溢れ続けている。 「絶対なんて言葉はない、ともいうけどね」 「……そう、だよな」 「でも」  ココアを一気に飲み干し、立ち上がる。涼夜が不思議そうに見る横で、さあっと黄ばんだカーテンを開け放った。  夜空で、さっきの満月が輝いている。 「星1つもない暗い夜でも、月が輝いて、夜桜が咲き乱れて、綺麗な小川が流れ、夜想曲(ノクターン)が静かに響けば、桃源郷となる」  振り向いて、ハッとしたように目を見開く涼夜を見据えた。 「私が、あんたにとっての桃源郷を作る」  桃源郷は別名、理想郷ともいう。涼夜にとって、ありのままの自分を受け入れてくれる、理想の世界。__それになるべくして生まれたのが、この廃屋だ。 「プロレベルまで上手くなって、いつか、あんたの心の拠り所になる演奏をしてみせる。そして、あんたを絶対独りになんかさせない、桃源郷を作る」  涼夜は音楽が好きだ。それを肯定し、プロの演奏を直に聞ける桃源郷を、この廃屋に作るのだ。  ……まだこの廃屋は、涼夜唯一の逃げ場にすぎない。それを、いつか。何年かかっても。 「それまでは、私がずっと側にいるわよ。……いや、桃源郷を作ったあとも、ずっと」  嗚咽が聞こえる。鼻をすする音が聞こえる。ぎゅっと毛布を抱き寄せ、唇を震わせる涼夜。 「あんたの夜が明けても、明けなくても、ずっと、あんたの全てを受け入れる。安心しなさい」  涼夜は泣き崩れながら、繰り返し感謝を叫んでいる。ありがとう、ありがとう、と。  そっと近づいて、幼いときから報われない幼馴染みを抱き寄せる。目を閉じれば、全国の舞台。スポットライトと、観客の視線と、割れんばかりの拍手。 あの舞台に戻る。 涼夜を救うために、何年かかっても。
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