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青空にゆったりと雲が流れていた。僕は空から視線を戻すと額の汗を拭った。春を通り越して初夏のような日差しが眩しかった。
大阪から上京して一週間が経っていた。親元を離れて初めての独り暮らしだったが、部屋の片付けをしたり他にこまごまとしたことに追われているうちに一週間はあっという間に過ぎ去った。
入試に合格してから大学に来たのは、入学式以来、まだ、二度目である。僕は神田駿河台という東京の真ん中にいながらも、この陽気ですっかり郊外にピクニックに来たようなのどかささえ感じてしまって、この大学の象徴にもなっている「白門」と称される校門を足取り軽く、くぐり抜けようとしていた。校門の向こうにあるキャンパスの方からは、賑やかな人々のざわめきや管楽器と思われる音さえも風に乗って響いてくる。僕の足は自然と早くなっていた。
その時だった。校門の脇に白い学生服をきた背の高い、いかつい体格の男が目に着いた。黒い学生服ではなく戦前の海軍の軍服を彷彿とさせる白い学生服だった。その白さが春の日差しを照り返してそこだけが浮きあがって見える。その白い学生服の男の周囲だけ、微妙に人が避けるような空間ができていた。
僕は何か異様なものを感じながらもうつむき加減にさっさと校門をくぐり抜けようとした。しかし白い男の方から強い視線を感じてしまってうかつにも顔を上げてしまった。そしてほんの一瞬のことだったが、その男と目が合ってしまったのだ。
すかさず男がまっすぐに僕の方に近づいてきた。とたんに僕は体が強張って動けなくなってしまった。
男は門を背にして僕の前に立ちはだかった。近くで見ると男の体は学生服を通してみてもゴツゴツとした筋肉に被われた体躯であることがうかがわれた。
「応援団だけど、もう、サークルは何か決まった?」
風貌に似合わず男の声は高音で透き通ったものだった。しかし、声に反してその眼光は僕の目を鋭く貫いている。とたんに僕の右頬がピクピクピクピクと痙攣を始めた。足は根が生えたようになって動かなくなっていた。
僕は、
「いや、まだです」
とごく普通に答えようとしただけだったが、頬のひきつりを無理やり隠そうとしてへたに笑ったような表情になってしまったらしい。
男の表情がはっきりと険しくなったのがわかった。
「てめえ、何だ、その面は。なめてんのか!」
低音もよく通る声だった。
男は獲物をからめとった獣のようにニタニタとした笑みを浮かべながら僕の体を上から下へとなめ回すようにながめて言った。
「まあ、体は丈夫そうだな。何かに使えるか」
その間も僕の右頬は小刻みにずっと痙攣を続け、足もガクガク震えだしていた。
「まあ、ちょっとお前、顔、貸せよな」
男が僕の肩を抱き抱えようとした時、校門の脇に立つ僕らの側を誰か走り抜けた者がいた。
「あ、お前!」
小柄な学生と思われる者が、一目散に校門の中に向かって走り抜けて行く。
「あのやろう!」
男がそう言った時、僕の肩を抱く力が一瞬、弱くなっていた。僕はその瞬間をとらえて自分でも考えられないくらいの敏捷さで男の腕を振りほどいて今、走り去った学生と同じ方向に向かって走り出していた。
後ろで男の怒鳴り声が聞こえた。でも僕は全速力で校門を抜け、人混みをかき分けて近くの校舎に走り込んでいた。
階段を三階まで一気に駆けあがると便所を見つけて個室に飛び込んで息を殺した。しばらくして誰も追って来ないことを確かめてから僕は個室の外に出た。まだ、胸がドキドキした。僕が心を静めながら洗面所で手を洗っていると、他の個室の扉が開いて、小柄な学生が出てきた。顔はよくわからなかったものの、雰囲気がさっき白い学生服の男の側を走り抜けた学生にどこか似ている感じがした。その学生も僕を見て気づいたようで、
「ああ、君、さっきの」
と言ってにやりと笑った。
「もう、大丈夫ですかね」
と僕が尋ねると、
「あいつ、応援団の団長で、本当、ひどいだろ。誰でもいいからめぼしいのを引っ張り込んで団員にしたてあげるそうだで」
と喉から絞り出すようなしゃがれた声で言った。独特な訛りがある。
「あなたも引っ張られたんですか?」
と、僕も気楽に関西訛りのアクセントで応えた。
「昨日だわ。こんな細い俺みたいな男を捕まえてもどうにもなりゃせんだろうって言ってやったら、どえりゃあ、怒り始めてな」
と学生が面白そうに話した。
「でもまあ、こんなことで殴られでもしたらつまらんで、逃げたって訳だわ」
僕達は、声をあげて笑った。不思議と僕の右頬はひきつらない。
僕達は、「応援団長」が居ないか気を配りながらゆっくりと校舎を出て一緒に中庭の方に歩き出していた。中庭と言っても芝生や花壇があるわけでもなく、戦後すぐに建てられた天井の低い3階建ての校舎に四方を囲まれた空間にアスファルトを流し込んだだけのものだった。隅の方に申し訳程度の数本の立木と一糸纏わぬ男性二人が肩を組んでいる銅像がなんとなく場違いに立っているだけだった。
その学生の名前は田原義成と言った。一浪して岐阜から出て来たのだという。僕と同じ法学部だった。
「これも何かの縁だで、俺のこと、『ギセイ』って呼んでくれ」
と、聞きもしないのにギセイはペラペラ自己紹介した後でそう言った。
「今日は履修届け?」
とギセイが言った。
「いや、それはまだなんやけど、サークル何か良いのがないかと思ってね。」
僕も気楽に返した。
僕とギセイは、すぐに中庭の雑踏に飲み込まれた。小学校の校庭くらいの広さの所に、どこを通って歩けばいいのかさえわからないくらいにびっしりとサークルの「ブース」がひしめきあっていた。それぞれ、長机ひとつにそこに使うパイプ椅子三脚をセットにして、そしてサークル名が大きく書かれた立て看板がひとつというのが、「ブース」の標準的な「装備」だった。そこで各サークルの学生が大声を張り上げて通りがかりの新入生を勧誘していた。いくつかのサークルが集まって「音楽研究会」というコーナーを作っている所では、勧誘に楽器さえ持ち出してそれが時たま耳をつんざくほどの迫力だった。
「何かいいのあるかねえ」
ギセイが雑踏の騒音にかき消されまいとして、しゃがれがちの声を励ますようにして叫んだ。
「何か決まってるの?」
と僕も声を張り上げた。ギセイはそれには応えずさっさと手当たり次第に片っ端から「ブース」に顔を突っ込んでいた。僕はひとり取り残された感じで、サークルの「ブース」を見回した。
眩しい日差しを浴びてそこにいる人々の笑顔も輝いているように思われた。二十歳代前半の者たちだけが集うその空間はそれだけでこの陽光に溶け込んでいた。
何か楽しいサークルはないものかと思った。理想を言えば、中学、高校とずっと男子校で来てしまったので、女子学生と多く巡り会えるサークルに越したことはなかった。でも、桁外れに運動神経の悪い僕がテニスやスキー等といった女の子に人気のあるサークルに、おいそれと入るのは抵抗があった。
「テニスサークルかもしか」
「テニス&スキー 青空」
「音楽研究会 マンドリンクラブ」
「山とスキー 苗場」
等々、ざっと見渡すだけでもどれもがテレビドラマに出てくるような「青春」を声高に叫んでいるように見えた。
僕は、すっかり気後れしてしまった。
ギセイが、どこから戻ってきたのか急に僕の側に来て言った。
「いやあ、ひどいもんだわ。ほら、ここからも見えるだろ、あの『かもしか』ってやつ。」
ギセイの指差す方に「テニスサークル」と書かれたカラフルな立て看板が見えた。
「受付に座っとる女の子がどえりゃあ、かわいい娘だもんで、つい、フラフラと入会させてもらおうと行ったらな」
ギセイが口を膨らませながら言った。
「もう、男は要りませんってことよ。男はすでにいっぱいで女子学生だけを募集してるんだってよ」
憤懣やる方ないといった様子のギセイをなだめて僕たちはゆっくりと「ブース」の間を縫うようにして歩いた。ギセイは、懲りることなく次々と「ブース」を覗き込んでは落ち着きなくキョロキョロしていた。
僕とギセイは、先ほどの応援団長のこともあったので、応援団関連のサークルには近寄らないように注意しながら、サークルの「ブース」の間をまるで縁日の屋台の間を巡るような感じでゆっくりと歩いて行った。
やがて学生達が行き交う流れがめっきり少ない所にやって来た。お目当ての女子学生どころか新入生と思われる学生自体もまばらである。見れば「学術研究団体コーナー」という少し大きめの立て看板を境にして学生の流れが減っている。
「民事法研究会」
「法哲学研究会」
「マルクス経済学研究会」
等々、堅苦しい名前がそれぞれの「ブース」の前に掲げられていた。
ギセイの方を見ると、さすがにどこの「ブース」にも顔を出さず心なしか早足になっている。
僕も、勧誘する気があるのかないのかわからないような難しい顔をして「ブース」の中で座り込んでいる学生には何の興味も覚えなかったので、全くどこにも立ち止まることなく、そのまま、別のコーナーへ移動しようと思っていた。
僕とギセイがうつむきがちにさっさと通り抜けようとしていると、急に鼻にかかるような甘ったるい男の声に遮られた。
「どこかもう、サークル決まったかな?」
綺麗な標準語のアクセントだった。反射的に声のした方を見ると、小柄な「男の子」という形容がいかにもふさわしい学生が人懐こい笑みをたたえて僕らを見ていた。今日、今からでもアイドル歌手になれそうな風貌である。
「いろいろさ、楽しいサークルもあるけどさ、折角、大学に入ったんだから、少しは勉強したいなんて思わない?」
僕はその「男の子」を見て、まずもって首都東京の男子は、このように話し方や容姿までもがソフトで「可愛く」なってしまうものかと驚いた。岐阜の男は「でー」とか「きゃあー」とかを連発する「ギセイ」だし、大阪では僕はずっと男子校だったけど、こういった類いの「男の子」にはついぞお目にかかったことはなかった。僕はさすがに東京は違うと変なところで感心していた。
「男の子」に言い寄られてもギセイはたじろぐことなく
「勉強はもう、いいわ」
と冷たく突き放していた。
「男の子」はそれでも笑みを消すことなく
「君達、法学部?」
と聞き、頷く僕達に対して
「みんな必死になってる司法試験の勉強だけが学問じゃないからね、ほんとはね、もっと面白いものなんだよ」
と言いながら一枚のビラを取り出して来た。
そこには
「国家論研究会へようこそ!」
と赤い字で大書されていた。
気付かなかったが、確かにこのブースの立て看板にも同じ研究会の名前が書かれている。
僕達が足止めを食ったような形で不本意に立ち止まっていると、どこから現れたのか、決して「可愛く」もない普通のどちらかと言えば老けた感じの男子学生が「男の子」の隣にやって来て
「折角なんだから、学問の楽しさを味うことなく過ごすなんてもったいないよ」
等と援護射撃を始めた。
止せばいいのにギセイが
「じゃあ、民法や刑法なんて勉強だけじゃないんですか?」
なんて聞くものだから、二人は調子ずいてしまって、やれ、そういった科目のさらに奥にあるもっと基本的なことだの、人が人として生きて行く上で必要なこととか、ますます、訳のわからないことを言い出すものだから、僕は、ギセイをほおっておいてもこの場を離れようとした。
「誰か入ってくれた?」
背後から突然、声がしたのはその時だった。涼やかで心地よい若い女性の声だった。
僕もギセイも思わず振り返っていた。そして二人ともその場で固まったようになって動けなくなってしまった。色白で小柄な女性が僕達を見て微笑んだ後で、「男の子」に向かって話した。
「あなたの後輩になるんだからいい人、入れてね」
僕は口をポカンと開けたまま、この突然現れた女性を見つめていた。まさしく生まれて初めて「女性」を見たという感じがした。ばっちりとした涼やかな二重瞼にスッと通った鼻筋、白を基調にした洗練された服装、爽やかな鈴のような声、そこにいるだけで光が集まってくるような神々しささえ感じられた。
「これが都会のお嬢様なんだ」
僕はなんと形容していいかわからない「美しさ」に急に出会ってしまって、雷に打たれて四肢の自由を奪われたようになっていた。
横目で見るとギセイも動きを止めていた。そして小さく呟いていた。
「綺麗だわー」
「女神」は、そんな僕達に対して笑顔のままで、
「入っていただけるのかしら。楽しいわよ。また、お会いできたら嬉しいわ」
と透明感漂う声で言った。
「男の子」がすかさず言った。
「ねえ、もう、入ってくれるんだよね。」
もう一人の老けた感じの学生も僕達をじっと見つめて小刻みに頷いている。そして何よりも、「女神」が真摯な眼差しでしっかりと僕達をとらえて離さなかった。僕は、その瞳の中に吸い込まれそうになっていた。
ギセイがのぼせたように呟いた。
「じゃあ、まあ、お世話になるわ」
「女神」がギセイの手をとって
「ありがとう、よろしくね」
と言った。そして、僕の方にその黒目がちの美しい瞳を向けた。
僕はからくり人形のようにコクリと頷いていた。「女神」は、変わらない微笑みをたたえながら、「男の子」と老けた男に向かって
「じゃあ、後はよろしくね」
とだけ言いおいてさっさとブースを離れて行った。
「いやあ、君達、『国家論研究会』へようこそ!」
と、「男の子」が明るく言った。
「僕は二年生の三井って言うんだけど、わからないこと、何でも聞いてね。よろしくね!」
と、「男の子」の三井くんが流行りのアイドルそっくりの笑顔で続けた。
「じゃあ、君達、ここに学部と学科そして住所と名前書いてくれるかな?」
と、「老けた男」が「入会申込書」と書かれた紙を出してきて言った。
彼は佐々木といった。こういった事務的なことを取り仕切っているのだという。ずっとこの間も笑顔を絶やさない三井くんと違って佐々木さんは、全く表情ひとつ変えずに僕達が記入するのを見ていた。
僕は書きながらあの「女神」の姿を追い求めていた。今度いつまた見ることができるのだろうかと思うと胸の奥がうづくような感じがした。
隣で記入しているギセイをチラリと横目で見ると、白い頬に赤みがさしたようになっているのがわかった。
こうして僕達は何をするサークルなのかよく確めもしないうちに、「国家論研究会」のメンバーになっていた。
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