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3
「国家論研究会」という名前からして何のことなのかさっぱりわからない。
まったく、どんなことをするのかさえ何もわからないうちに入ってしまった。
でもあの日以来、あの時の女性の姿かたちが脳裏から離れてくれない。ふとした拍子に昼間でも白昼夢のように爽やかな白い顔が浮かびあがる。夜間は何度、夢の中で彼女の姿を追い求めては目覚め、深いため息をついてまんじりともしない時間を過ごしたことだろう。
あの日入会した時、三井くんが、
「サークルの溜まり場がね、三号館、ほら、あの建物の地下にあるから、いつも誰かいるからさ、大学に顔出したら遊びにおいでよ」
と薄汚れたグレーの建物を指差しながら言っていたのを思い出して、僕はあの「女神」にもきっとまた、会えるに違いないと思って、翌日からはもう、大した用もないのに必ず顔を出していた。
今日でもう、二週間にもなる。それでも女神には一度も会えなかった。午前中に行ってみたり午後に行ってみたりといろいろ時間を変えても一向に女神には会えなかった。
ただ、頻繁に顔を出すことで、サークルの主なメンバーのことは何となくわかってきた。そして何よりも「女神」がみんなから「良江さん」と呼ばれていることも。
この大学は来年、この東京のど真ん中から多摩の八王子に移転することが決まっていた。そのせいなのか、この薄汚れた三号館には、所々、窓にガラスが入っていない。僕達一年生は、多摩に移転することを前提に入学してきたから何も言う権利はないのだろうが、二年生以上はまだ、「多摩移転反対闘争」なんてことをしている人達がいるらしい。その学生達が機動隊とぶつかりあった結果、割られた窓ガラスは取り替えられることなくベニヤ板を打ち付けたりしただけで済まされている。
そんな傷だらけの校舎に入って埃でざらついた廊下を少し進んでから階段を下ると、やがて薄暗さに目がなれる頃、踊り場の壁に掛けられた電球の黄色い光が異様に明るく感じられて目がチカチカした。それぞれの段の角が擦りきれて丸くなった石の階段をさらに下りて行くと、廃材置き場と見まがうような空間に出る。ここが「三号館地下」略して「サンチカ」と学生たちに呼ばれている場所だった。古い木の机や椅子が、無秩序に壁際に積み上げられているのを取り崩して、長机を二本並べただけのニの字型や四本並べたロの字型に組み合わせたスペースが、何の仕切りもないだだっ広いこの地下空間をびっしりと埋め尽くしていた。ただその各スペースには必ず数人から十数人の学生がたむろしており、それぞれの学生がてんでに発する言葉や体の動き等から起こる音が混じりあい天井付近でこだまして、モーターのうねりのような低い共振を作り出していた。むっとした空気には煙草の臭いが立ち込め、もやもやした煙が薄暗い地下空間をいっそうどんよりとしたものにしていた。
僕は古い長机がロの字型に組み合わされた「国家論研究会」のブースに近付きながら、素早く本日のメンバーを目で確かめて早くも落胆した。
今日も良江さんは来ていない。そして今日の出席者も相も変わらず、三井くんと、同じく2年生の鈴木さん、それと僕と同じ1年生の伊藤賢一だった。
ギセイも毎日、来ていたが今日はまだ、来ていないようだ。当然、彼のお目当ても「良江さん」であるのだが、残念ながらギセイもあの日以来、会えていないらしい。
「ここ、何かひどいでしょ。ちゃんとね、サークル棟が図書館の隣にあるんだけどね、『安保闘争』とか色々あって、学生が占拠しちゃったもんだから当局が閉鎖しちゃってさ、代わりに文化サークルはここに閉じ込められたんだよ」
と、三井くんが言い訳するかのようにしかし相変わらず可愛く言った。
「すごかったんだって。籠城する学生に機動隊が突入して、あっちこっち、血糊でべったりだったんだって」
とあとを継いだのは同じく二年生の鈴木さんだ。縁の赤い眼鏡をかけているが、小柄なせいもあってか、折角の赤も目立たない。
鈴木さんは高校生のようなお下げ髪の毛の裾をくるくる指で巻きながら、
「うちのサークルも大変だったって、良江さんから聞いたことがあるわ。ほら、良江さんてあれだからよく知ってるのね」
と右手の親指を立てて言った。
三井くんが、鈴木さんの顔を見て何か目配せのようなことをしたように感じたので、僕は何だろうと思っている矢先に、
「えーっ、良江さんがどうかしたんですか?」
といつの間にやって来たのか、ギセイが割り込んできた。全く机の下にでも隠れていたような神出鬼没さである。
その事には応えずに伊藤賢一、近頃ではみんな、「イトケン」と呼んでいるのが、
「お前さ、昨日、あれからすぐ帰ったの?」
とギセイに向かって尋ねた。
イトケンは、どこから見ても立派な「労働者」に見える。引き締まった長身の体に似合うのはペンにノートではなく、土砂を運ぶ一輪車とシャベルであるような気がしてしまう。浅黒い顔に、鼻の下に無造作にはやされた髭が、初対面の人を身構えさせるが、そのソフトな口調とひとたび笑えば本当に人懐っこい風貌がいっぺんに相手に安心感を与えてしまう。もっとも彼は三浪だったから、その安心感は年齢からくる「落ち着き」のようなものもあったのかも知れない。
「帰るわけないわ、土田さんと4年の宗像さんらとずっと麻雀やわ」
とギセイがあくびを噛み殺しながら言った。
「ギセイは近頃、毎日だね、家には帰ってるの?」
と、深夜のFM放送のDJのようなソフトな声でイトケンが言った。
「いやあ、全く帰れんで困ってるわ。ちょっと匂わんか?」
と、こちらはいつものように喉から絞り出すような声でギセイが僕に向かって言った。
鈴木さんが、ちょっと、ギセイから体を遠ざけるような仕草をして笑った。
「別に匂わんけど、ひょっとしてここで寝たんか?」
と僕は尋ねた。
「神保町の雀荘で明け方になってもたもんで帰れんで、門を乗り越えたら簡単にここまで来れたわ。大学ももうここはどうでもいいんだな。」
ギセイはそう言いながら、首を左右、交互に傾けながら、
「あっちの机があいとったから寝とったけど木がゴツゴツしとるで首が痛いわ。」
と壁際に一つ出されている机を見ながら顔をしかめた。
全くギセイは、ここにやって来ては、先輩連中に連れられて、連日、パチンコ、麻雀に興じているらしかった。僕も誘われて二、三度お供したが、何せ麻雀もパチンコも高校時代にやったことなどなかったので、麻雀はなかなかルールについて行けず、牌をなかなかきらないものだから周りから
「早く、切れ、早く、切れ」
と急かされるので嫌になり、パチンコは、大学の近くの老舗の「人生劇場」という店で半日粘って手に入れたライターが、3度、火を付けただけで石が飛んでしまったので以来、全く行かなくなってしまっていた。
「何か食べてくるで、君も行かんか?」
とギセイに誘われて、僕もついて行くことにした。
「そうそう、 私なんて九州の人間やけん、 情緒があっていいなと思うよ」
「そうなのよね、 私も東京だから京都の格子戸が 並んでるところがたまらなく好きなの」
と言うイトケンと鈴木さんのたわいのない会話を片方の耳に聞きながら僕はギセイと外に出た。
大学を出てニコライ聖堂の前を通りすぎ駅に向かって坂道を下って行くといつもの情景ではあるが、そこかしこで若者たちが 二、三人ずつの小さな塊となって流れてゆく。いつも思うのだが、この街には若者の姿しか見当たらない。 今日も今は昼時なのだから、 もっとサラリーマンがいてもいいように思うのだが、どういう訳かこの街では目立たない。 僕たちも何の違和感もなくお茶の水の雑踏に溶け込んでいった。
「何食べる?」
と僕が聞くとギセイが、
「この前、宗像さんに教えてもらった店があるでそこ行こう」
とどんどん先に進んでいった。
「むなかた」って誰だと思いながらもギセイに案内された店は大人5人も座ればカウンターがいっぱいになってしまうこじんまりとしたどこか懐かしさを感じさせる洋食屋だった。
「ここはカツライスと相場が決まってるそうだで、お前もそれでいいか」
と言うので二人揃って同じものを頼んだ。
「宗像さんって誰?」
と僕が座ってすぐに尋ねると
「四年の先輩だわ、東京都庁受けるとか言ってなかなか来んけどいい人だわ」
と答えた。 僕はつくづく、このたかだが十数日間に過ぎないギセイのサークル内での人間関係の広がりに感心した。
「じゃあ、もうほとんどすべての先輩達に会ったの」
と僕が探りを入れると
「会ったけどなあ、肝心な人には会えんのよ」
とギセイの方から話し出した。
「君も名前くらいはもう知ってるやろ?」
とギセイが尋ねた。
「良江さん」
と、僕が答えると
「そう、 良江さん。 こんなに張ってるのに全く会えないなんてなんかあるんだで」
そう言ってギセイが、何か考えるように視線を下げた時、カツライスが運ばれてきた。
しばし二人はカツライスに集中した。 値段のわりに大きくとても美味しいものだった。これが学生の街の味なんだと思えて僕はなんだか嬉しくなった。
「僕もな、あの良江さんに会いたくて、ほとんど毎日サークルに顔出してるけど全く会えないもんね」
カツライスをほとんど食べてしまってから 僕がそう言うと、
「良江さんは文学部3年生らしいけど、 なんでサークルに来ないのか先輩に聞いてもなんかはっきりせんでね」
とギセイが言うのを聞いて彼女の高貴とさえ思えるくらいの美しさとその存在の遠さが変にマッチして、僕は何故か納得してしまっていた。
ギセイがタバコに火をつけた。たちまちピースの強い匂いが立ち込めた。ギセイのしゃがれたような声はこれが原因かと僕は思った。僕もつられてセブンスターを吹い始めた。そして言った。
「良江さんもそうやけど、このサークル一体何をしてるサークルやろ?思わない?」
ギセイが応えて
「そう言えばこのサークルに入ってからずっと毎日あそこに入り浸ってるけど、サークル自体の話はあまり聞かんなあ」
とギセイは言ってから、水を一口飲んだ後で
「出ようか」
と言って席を立った。
二人で何の当てもなくブラブラと歩いた。 僕が、
「あれから白い学ランには会う」
と聞くと、
「あの時は怖かったな」
とギセイが愉快そうに笑った。
「ほんと必死で走ったからね」
と僕が言うと、
「実はな、この前そこの吉野家で牛丼食っとったら、斜め向かいの席の奴、どこかで見たような気がしたんやけどな、 あいつだったんよ。 白い学ランじゃなくて普通の格好してたから、なんかかえって変な感じでな、妙に真面目くさった顔して紅生姜なんかどんぶりに移してるんよ。こっちは内心ドキドキもんやけど気付かれんようにしてさっささっさと食って出てきたわ。応援団てさ、何でも部員、ジリ貧だそうであいつにも色々事情あるんだなと思ってもうたわ」
としみじみとした感じで言った。
「でさ、きっとここのサークルにもいろいろ事情あるんだろうけどみんないい人だしな、いろいろ遊んでくれるし、なんといっても楽しいし」
と言うので僕はそれ以上サークルについてとやかく聞くのはやめた。
その日は結局、神田の街を二人で行く当てもなくフラフラさまよった後で、ギセイが気乗りしない僕を無視して「人生劇場」に入り込んでしまったので、僕も3時間ばかりをパチンコ台の前で過ごす羽目になってしまった。僕も仕方なくいろいろと台を変えて打ってみたが、 数千円の損失を出しただけで終わった。
ギセイは、戦利品としてチョコレートやタバコなどを紙袋いっぱいに獲得して満足そうに笑っていたが、
「帰るのもなんだで、君んちでも行こうか」
と急に言い出した。
ギセイが、僕のアパートに来るのは初めてのことだった。ギセイはもう決まったことのようにずんずん中央線の駅に向かって歩いて行った。僕も後を追いかけた。
新宿で乗り継ぎ、京王線つつじヶ丘駅で降りて裏道に入ると、人通りもまばらな緑豊かな細い道が続いている。 鳥も梢の上の方からさえずったりして、とても東京とは思えない。 道すがらギセイは、回りの景色には無頓着に
「今日は風呂に入らんとな。」
と鼻を肩口に寄せて臭いを嗅いだりしていた。
「うちはお風呂ないよ」
と言う僕に対して、
「じゃあ銭湯にでも行くか」
などと二人してたわいない話をしているうちに僕のアパートに着いた。
アパートと言っても 普通の二階建て民家の二階部分の一部屋を借りているだけで、 便所も洗面所も共用だった。 二階のもう一部屋には 同じく今年から大学生になった青山学院の学生が間借りしていた。
ドアを開けて二階への階段を上がるとその青山学院の学生が自分の部屋から声をかけてきた。 彼は法川と言った。富山出身でどこか間延びしたような話し方をする。
「今日は早かったね」
と法川が部屋から半分、顔を出すようにして言った。
「うん、 友達つれてきたから」
と僕が言うとギセイが、
「同じサークルの中村です。よろしくね」
と答えた。
あまりにギセイが、その後も 風呂、風呂と言うものだから、僕たちは
「昨日入りそびれた」
という法川を連れて、さっそく近くの銭湯に行くことにした。まだ暮れるには早い春の陽が、三人をやさしく包んでいた。それぞれが石鹸の音をカタカタさせながら舗装されていない道を進むと、まるで青春ドラマの主人公にでもなったような気がして心地よかった。
「ゆ」と大きく書かれた暖簾が、瓦屋根で白い漆喰の壁の入り口に掛けられて風にゆったりと揺れていた。
ほんの数週間前まで大阪の自宅で 一人でプラッチック製のバスタブに入っていたことを思うと、 僕は少し不思議な気がした。ここにいる二人は、 ほんの少し前までは全くの他人だったのだ。
法川とギセイは、もうずっと以前からの友達のように打ち解けている。二人はまだ客のまばらな浴槽に勢いよく飛び込んでお湯の掛け合いなど無邪気にやっている。
「お前ら小学生か」
と言う僕が遅れて湯船に入るとギセイが頭から湯を浴びせかけた。
「お前なあ」
と応戦しようとする僕を湯船の端っこに入っていた初老の男が睨み付けた。僕は二人にも目配せをして大人しく湯船を出ると三人そろって体を洗い始めた。
法川が僕の股関を覗き込んで
「長さでは勝つけど太いよな」
と笑いながら言った。
「何見てんねん」
と僕が前を隠して笑った。 今度は法川が反対側に居るギセイを覗き込んで
「いやあ、 中村さんはすごいわ。こんな長いの見たことないわ」
と驚きの声を上げた。ギセイは、素早く隠すと困ったような声で
「それほどでもないで」
と小さく言った。
急に話題を変えるようにしてギセイが
「なんかもう4、5日、入ってなかったもんで助かったわ」
と言って大きくのびをした。僕も体を洗いながらも心地よい暖かさにうっすらと額に汗をかいて、本当に受験から解き放たれ新しい世界に入ったのだという「解放感」に浸っていた。 良江さんには会えなかったしどんなサークルなのかわからない不安はあったが、とにかく今はそんなことはどうでもよく思われた。
風呂から上がって脱衣場に戻ってくると番台の上の棚に置かれたテレビからピンクレディーの「渚のシンドバッド」が聞こえてきた。
「今、一番人気はこれだわ、これで行くか」
とギセイが唐突に言った。
「え、何それ?」
と僕が聞くと
「何も聞いとらんか」
とギセイが問い詰めるように言った。
「何も」
と僕が応じると
「新歓合宿ってのが毎年あるそうでな、新入部員はそこで何か出しもんちゅうか芸せんといかんみたいやで」
とギセイが言うので
「えっ、それでこれ、二人で?」
と僕は少し驚いて応えながらテレビの画面に見いった。 今、人気絶頂のミーちゃんとケイちゃんがかなり早いテンポで実に可愛く踊っている。ここまでの動きは当然出せないだろうがそれなりでも振り付けに近いものができれば確かにみんなに受けるかもしれない。
そこへ法川が、
「練習するなら俺も手伝うよ」
と顔を出してきた。 そして振り付けっぽくクロールと平泳ぎのような感じで左右の腕を動かしてから
「あ、あ、あんあん、あ、あ、あんあん」
と歌いながら次に耳のそばで器用に手のひらを回転させた。
「おー、できるやないか」
とギセイが嬉しそうに続いて真似をした。
周りの客の目が気になったが僕も構わず参加してぎこちなく踊った。
三人で踊るピンクレディーは
「ちょっとあんた達、いい加減にしなさいよ」
という番台のおばさんの怖い顔に止められるまで続いた。
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