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1 逃げないでね
「おめでとうございます、三宮さん」
「ありがとう」
とある街の、入り組んだ先を行くとたどり着く、隠れ名所と知られているバーのカウンターにて。
営業時間が終了し、閑散とした中三宮呂久へとグラスを掲げた伊龍晴翔は、いつもはあまり動かない口角を僅かに上げ、からかいの混じった瞳で呂久を見やった。
「それにしても、僕たちの協力なしでは好きな人に心からの『好き』が言えないなんて……子供以下なんじゃないですか?」
カランとグラスに入った氷が音を立て、その後呂久によりカチリとグラスが合わさると、からかいの混じった瞳を真っ向から見れないのか彼は視線を逸らした。グッと一気に杯を呷ると、熱い吐息を吐きながら頬杖をつき投げやりに答える。
「仕方がないでしょう? 大切過ぎて怖かったんだから。君ら二人には感謝してるよ。行動を起こしてくれなかったら、僕は緋佐くんを手に入れられなかった」
「二度と離しちゃダメよ? 貴方のしたことは、生涯をかけて償いなさいね」
「分かってるよ」
呂久はチラリと晴翔と正面にいる男、このバーのマスターであり男でありながら髪を長く伸ばし一本結びにしている彼に視線を向け言うと、その言葉を受け止めたマスターは呂久に苦笑交じりに言葉を放ち、手に持っていたリキュールの入ったグラスを呷った。
閉店後の店内は三人しか居らず、元々シックな雰囲気も相まって物静かな空気が流れる。
そんな中、晴翔は隣に座っている呂久に流し目を送った。
マスターにからかわれながら杯を呷っている彼は、晴翔の初恋の相手だ。……そして今も、好きな相手である。
彼は本当に酷い男だった。好きでもないくせに『好き』という言葉を放ち晴翔をその気にさせ、付き合ったと思ったらあっさりと捨てられた。
ゲーム感覚に付き合っては別れてを繰り返す男。最低で最悪で、酷な事を繰り返す男。
その彼が、ある一人の男に本気になった。
その様子を見て、本当に自分ではダメなのだと何度も実感した。呂久は彼の言動の一つ一つに一喜一憂し、愛情を隠さず時に写真を見せ自慢する。
彼は、晴翔を好いてはくれなかった。全く、欠片たりとも心を砕いてくれなかった。
そして晴翔も、呂久へと向かう感情が狂っている事に気付くと、彼を諦めるため彼の恋に協力をした。
長かった恋もこれでさよならだ。彼は唯一の人と一緒になって、晴翔は一人こうしてたまに彼の話を聞くのだろう。
彼との恋を通し、もう恋などしないと決めていた。好きな人が本当は自分を好いていなかった、その絶望を知るのはこりごりだ。
それにどうやら、自分は好きになった相手には周りが見えなくなるらしい。
自分ですら制御できないそれが恐ろしくて、もう恋などしないと心に誓っていた。
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