八人の猫のいる家

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あの時の私は、部屋で一人、窓際で月の光に照らされていた。蒼くて、ベールに包まれているようで。ずっと膝を抱えて、それがすごく心地よかった記憶がある。時間が私を透過していた。私はそれだけを感じていた。本当は泣きたかったけれど、不思議と溢れてはこなかった。我慢していたわけでもなかった。こんな記憶が今になって、私を流れる。何か、意味があるのだろうか?過去の私。中学生の時、両親が離婚した。その辺の記憶だと思う。過去の私が今になって見える。映像として。あの時、私の部屋は蒼かった。そして、一人だった。自分だけが、そこにいる。それでも私は、大丈夫だった。清澄な空気を、ただ私は感じていた。その記憶と、今の私が繋がっている。母は、経済的に自立が出来る人だった。聡明な人。今でもその感覚は変化していない。でもあの時、あの家には私一人だった。母はいなかった。あの時の母は、恋をしていた。私はそれに気づいた。母のその人と、私は会ったことは無かった。気のせいだよと言われれば、それはそれで私には関係のないことだから。あの時の私は、母が女として輝くことに、嫌な感じがした。もしかしたら、私は傷ついたのかも知れない。だから記憶になっているのかも。夜が蒼い日。私は憂鬱になる。憂鬱になる原因は、きっとこの記憶のせいだろう。あの瞬間に死んでしまえばよかったのにと、今の私は考える。あの時から、きっと私の時間は進んでいない。母に対する視線が変化していないことが、その証拠だろう?繋がっているようで、繋がっていない。あの蒼い日、私は母に傍にいて欲しかった。私はあの時間を耐えた。だからかも知れない?今でも私は一人でも大丈夫。外側を流れる時間と、内側の時間。その間にある、私の輪郭。外側を流れる時間に、なぜか負けたくなかった。思春期であった自分を、今の私が俯瞰で見ている。過去の自分でさえも、そっとしておかなければいけないのだろうか?蒼の時間の私。不意に現れる。母とは、深い会話をした記憶がない。母は忙しかったし。でも私は家が好きだった。内向的な私は、早く家に帰りたかった。いつも一人だったけれど、それが当たり前だったから。ずっと本を読んでいた記憶はある。明確な答えが出ていないのに、時間だけは過ぎていった。父との思い出も、それほど無い。記憶の蓋が開いて、出てくるかも知れないけれど。人はきっと、自分に耐えられることしか記憶しない。そう考えると、自分が怖くなる。私がまだ弱いから、眠っている記憶があるかも知れない。自分のことが、よく分からない。意識の下にあることなんて未知。目の前の現実を、取り敢えずは維持しなければならない。日々の連続した時間の中に、過去に流れた時間が侵入してくる。意識下にはきっと、抑圧されたプリミティブな感情が、変則的に並んでいるのだろう?恋愛をすると、その抑圧された感情を放出させることが出来る。友達では、埋めることが出来ない。だから人は、定期的に恋愛を求めるのだろう。もう私は大人だから、ずっと一緒にいたくない。すでに、過去の私ではない。純粋に若い人は、恋愛に夢中。そんな話を聞くと、過去の自分を見るようで、何気なく恥ずかしい。あの時間がずっと続くと、私は何の疑いもなく思っていた。過去の恋愛。醜い石ころが、川を長い時間をかけて流れていく過程で洗練されていくように。遠い記憶?私の中ではすでに終わっている。好き。嫌い。とても会いたい。焦燥。そんな感情が入り乱れていた。邂逅。あの時、私の意識下はざわざわした。意識下の感情が激しく動いた。そんな記憶。今の私は恋愛を求めていない。意識下の私と繋がれる人が現れるのを、期待もせず私は待っている?日常はそれでも流れているよ?日常の揺れの中で、何とか私は自分を保っているよ?朝起きて、ベッドを整える。窓を開ける。汚い部屋は落ち着かない。今は一人暮らしをしている。起きると誰もいないことに、不意に気づくことがある。ものすごく、恐怖を感じる時がある。一人の部屋。あの蒼い部屋の記憶。でも遠い記憶。私はもう自由なのに、何でこんなにもびくびくしているのだろう?本当に好きな人に、優しく抱かれたいと、素直に思う時がある。そんな男は、現実にはいないのかも知れない。過去の経験から、私の思考はそう導く。現実を何とか生きているよ?この緊張感を、すべて解き放ちたいと思う時がある。現実の世界は激しく動いている。でも私は普通の人。意識下の私は、そんなことはどうでもよく。私は目の前にあることを、忠実に遂行するだけだ。毎日会社に行く。それでかろうじて、現実の世界と繋がっている。会社の外の世界なんて、私にとっては別世界のこと。その別世界と繋がるのは、経営者の仕事だろう?会社という、世の中から隔絶された世界で、その常識の中で、私は生きている。私は今、自分がどこに立っているのか分からない。それでも、会社に来ることで、取り敢えずは居場所があるから。だから会社に来るのかも知れない。会社があって、世の中があるわけでなない。世の中があって、会社が存在出来る。私の今やっている目の前の仕事に、不意に疑問を感じることがある。考えなくていいことを、考えているような気もする。私はもう、純粋に若くはない。いい意味で、素直になれない。人生を、無駄に使っているような気もする。だったら辞めればいいけれど、目の前の生活を考えるとね。簡単には辞められない。仲間とうまくやってはいる。表面上はね。みんな本心では、何を考えているか分からない。私は何を信じて生きているのだろう?表面上は、うまく流れている。でも意識下では、焦燥感でうまく眠れない。表面上の繋がり。表面上の言葉。すぐにでも壊したいと思うし、裏切る準備は出来ている。あの時の、私の感情に似ている。あの時の私は、母に傍にいて欲しかった。そんな弱い自分も嫌いだった。私は今でも母を恨んでいる?私は優等生だった。でも私はそんなに強くない。それを母には理解して欲しかった。壊れてしまえばいいのに。長い時間を掛けて築いてきたものなんて、目の前で壊れてしまえばいいのに。そんな願望が、今でも私の深奥にある。それに私は何気なく気づいている。そんな自分が怖くもある。安心を、私が求めていない。私の精神だけは、自由だ。私は孤独を受け入れる。独りでいることが、怖くない。きっと容姿が美しいからだろう。私は自分の容姿が好き。私に向けられる視線で、より強くなれる。美しくいることが、私の仕事だと思える。恋愛に、執着した記憶がない。男の人は、いつも私に対して紳士だった。私の意識下では、そんな男の行動に、どうでもよかった。男にそういう態度を行わせる、自分の容姿が好きだった。本当に人を好きになったことなんて、無いのかも知れない。幼き日から、たぶん私は傷ついていた。少女から大人になって、その過程で周りの男は私のことを、恋愛対象として見始めた。ただそれだけのことだ。現在を生きているのに、私の意識は意識下に、いる。過去は過ぎたけれど、意識下に生まれた歪みは消えていない。日常を維持しなければいけない。取り敢えずね。好きでもない仕事をやっている?人生を無駄に使っている?新興企業の若き経営者なら、他人のここが、モチベーションになるのだろう。好きで、この場所にいるわけじゃない。小さい頃から、そんな感情が何気なく私を流れていて、それが今でも続いている。目の前のことが、早く終わればいいのに。なぜなら私にとって、不必要なことだと思ったから。過去のそんな意識下での出来事が、今でも続いている。湿度のない、それでいて暑くもない日が好き。私の髪の毛を、かるく風が抜けていく。それだけで、いいような気がした。今の私は意識下を泳いでいる。水中にぽっかり浮いているような?母親の胎内にいる時には、完全に私は安全だった。そして私は生まれたのだ。いろんな人がいるということを、私は理解していく。私は自分を守らなければいけないということを、知った。誰とでも繋がれない。それが現実だった。私は自分の輪郭の範囲内でしか、生きられない。不自然に、感情を鼓舞するエネルギーが、今の私には強すぎる。本が好きだったせいか、どこか私は冷めていた。現実と、本から得た知識と距離感と思想が融合し、今の私になるまでに、感慨としては早かった。何をあんなに私は苦しんでいたのだろう?今となっては孤独な重い記憶になっている。それでも。あの時間は過ぎた。こうして私は生きているではないか?それだけで、とても運がいいような気がする。気のせい?今の私に恋人はいない。それでも、寂しくはない。このままの状態で、しばらく生きられそうな気がする。常識が纏わりつくのが嫌。完璧に拒絶するわけにもいかなくて、その都度、自分を突きつけられる。「どうする?」ってね。感覚だけでは普通でい続けることが出来ない。私は私の思想を持たなければ、私の輪郭が消えてしまう。束縛は嫌だ。自由でいたい。だから私は孤独を受け入れる。人の中にいると、内面がざわざわする。その振動が、意識下から心拍数を上げる記憶を蘇らせる。その瞬間を、巧妙に察知できるひとがいる。殺したくなる。私は素直にそう思うのだ。精神的にも肉体的にも、平穏でいられる時間は、どれくらいあるのだろう?一年の内で。表と裏。私の陰。秘密裏に、その陰にあるものを昇華していかなければ。人の世の中はおもしろい。最近は、こんな境地。人は揺れる。その集団も、当然揺れる。男を見ていると、それが分かる。私にとってはどうでもいいことだ。静かなる殺し合い。好き。嫌い。根底にあるのは、単純な感情だ。それを巧妙に隠す技術を身につける場所が、会社なのかも知れない。普通のひと?そう見えているだけなのかも。死ねばいいのに。そう一日のうちに何度も思う私は病んでいる?自分ではよく分からない。過ぎてみなければ、今の判断が正しいのかなんて、結局分からない。そうやって私は進んできた。離婚を経験している。どうやら私は男に対して父性を求めてしまうようだ。私の欠落している部分を知れた。あの時の感情の揺れ。離婚してしまったことに、後悔はない。なぜ私は結婚したの?それはそれで、いいではないか?どこかが欠落したまま、私は生きてきた。それを無意識に埋めようとしたものが、結婚だったのだろう。私の求めていたものと、彼の求めていたものが違った。意識下で、繋がれなかった。時代は変化しているけれど、私の深奥は止まったままなのかも知れない。個としての私が置き去りにされているような気がする。壊れてしまえばいいのに。意識下にある感情も、無意味と思える忙しさも。期待。希望。今はその残骸が、私の意識下に堆積している。掃除しなければ。長い時間が掛かるかも知れない。毎日が、うるさすぎる。雑音で、感情が不自然に揺れる。本当に自分に大切な事にだけ、集中したい。捨てよう。不必要なものを捨てよう。不必要な洋服。不必要な人間関係。不必要な記憶。不必要なもので、私が疲れている。感性を洗練させよう。不必要なものまで、必要に感じてしまう。人の不幸に対して、前の自分より耐性が出来た。私だって、自分の道を実際に歩いている。歩いていることに、余裕がない。人の気持ちをどれくらい考えればいいのか、過去の私は苦しんだ。私は私の距離感でしか生きられない残酷を、知ったのかも知れない。だから今は、自分のことを訊きもしないのに長々としゃべる人に、嫌な気持ちがする。貧乏で、不細工な男の気持ちを長い時間を掛けて、理解しようとは思わない。実際に世の中を生きている私に、そんな精神的な余裕はない。日常を生きることに、日々疲れている。私の精神は、癒しを求めている。私だって、精一杯生きているよ?戦争の無い国に生きているけれど、私だって命がけで生きているよ?本当はこんな些細な気持ちを理解して欲しいとは思うけれど、言葉にしないだけ。私は自分に対して、正しい生き方をしているだろうか?現実の世界。意識下の世界。仕事をすることで、私は現実の世界を知った。現実の世界で経済的に成功する人は、ほんのごく僅かということを、身に染みて知った。お金を得るということは、本当に大変だったということを、社会に出て知った。お金というものは、肉体的に頑張っても、それ程稼げないということを、残業で体を不健康にすることで、身を以って知った。それで。過去の自分は終わった。これからは、働き方を変えなければいけない。働かされるのは嫌だと、私は考える。再婚は別にしなくてもいいと考えるし、これから衰退していく日本で子供を持ちたいとも思わない。孤独死を、私は恐れない。最近、死について考えることが、多くなったような気がする。まだ、三十代と思うべきなのか、もう三十代と考えるべきなのか?今は、若い時の深刻な思考が消えてしまっている。脳の中の回路が変化したのかも知れない。思考が揺れている。そんな自分に、私自身が戸惑っている。新しい不安で、今の私が苦しんでいる。まだ、過去の自分に完璧な答えを出していないのに。時間は素っ気なく、過ぎていく。私の気持ちなんて、考えないで。立ち止まりたいけれど、そんなわけにもいかない。歩き続けながら、考え続けなければいけないのかも知れない。あったかも知れないし、もしかしたら、無かったかも知れない。そんな感覚的な記憶さえ、今は苦しい。みんな、どんな感じで生きているのだろう?私だって、こんなに内面が揺れている。毎日、取り繕って生きているよ?私はたぶん、意識から現実をかなり排除している。そうしなければ、私は現実の世界で立っていられないだろう?両耳を塞いでうずくまりたくなる。世の中に存在する膨大な書籍の殆どは、現実の歪みから生まれたものだろう。現実とバランスを取る為にね。私は何とか現実と距離を保てている。どうやら知識が私の血肉になり始めているらしい。そんな感じがする。別に、このままでいいとも思えないし、未来に期待をするほど、今の私は馬鹿ではない。無理に、考えなくていいような気がする。今はね。そのうち、何かが見えてくるかも知れない。焦っても、仕方ない。最近は、そんな感じでいい感じに、諦めている。感情がもっと、私の体から抜けていけばいい。薄い繋がりを、少しずつ切ってしまいたい。繋がっているようで、きっとほとんど繋がってなんかいない。自分の意識下にある感情と、向き合うことが怖いような気がする。きっと残酷な感情が、無数に散らばっているのだろう?自然に生きているつもりだけれど、意識下は不自然のような気がする。表の言葉をしゃべることで、意識が現実に対して目覚める。働くことで、意識下の言葉を一時的に封じこめることが出来る。毎日が微妙なバランス。私は現実に対して、きっと何も信じていない。触角を鋭敏にしておくことで、日々自分を守っている。人の視線は一瞬で変化する。大人になっていくとは、人の怖さを知っていくことなのかも知れない。毎日自分のことで精一杯。今の場所から純粋に若い人を見ると馬鹿に見える。離婚を経験したし、別に子供がいるわけでもない。だからかも知れない?繋がりなんて、簡単に壊れる。それを今の私は知っている。過去のままで生きていくことに、私はどこかの地点で疲れた。純粋に若い人の悩みなんて、今の私にとってはどうでもよく。それを感じ取る感受性は、完全に擦り切れて残っていない。普通に生きながら、今までの繋がりや仕組みが壊れることを、陰湿に私は望んでいる。こんな欲望は、私の意識下にあるなにものかが、影響しているのだろうか?繋がりを断ち切りたい。そんな欲望が私にはある。蒼い部屋の記憶。あの時間を私は未だに引きずっているの?好きで、あの両親から生まれたわけじゃない。それでも私は、未来へ生きてきたつもり。それなのに意識は、過去へ深く遡ろうとする。過去と現在が、完全に繋がっていないから、私は日々、不安定なのだろうか?自分をこれ以上暴かなくたって、生きていける。すべての人に、あるがままの自分を知って欲しい、なんていう悪趣味は私にはない。私は私の人生を生きている。だから他人のことを知りたいとは、思わない。そんなエネルギーは、今の私にはない。自分の距離感で、何とか日々を生きています。今の私はこんな感じ。皮膚の外側にある繋がりに、今の私は疲れている。誰とでも仲良くしなくたって、生きていけるということを、今の私は知っている。近寄らない、関わりあわない。こんな感じで私は生きている。不必要に、考え過ぎているのかも知れない。私に対する悪意から、自分を守らなければ。こんなにも、時代の変化は激しいのに、こんなにも、私の変化は遅い。純粋に若い人が好む刺激は、今の私には強すぎる。自分の変化がもどかしくもある。  祖母の家に行くと、また猫が増えていた。祖母は猫を匹ではなく、人で数える。七人になっていた。前来た時は、六人だったような気がする。祖父が死んでから、動物がいつくようになった。一人保護し、その子は死に、三人の子供を残した。上から、ミント、チャプ、モモ。ミントは十一キロを超えている。家のボスだ。ホワイトゴールドのクロスをしている。定期健診で獣医さんに行くと、高級なお座布団みたいねと言われたらしい。寝てばかりいるけれど、人の感情の揺れに敏感で、その揺れに寄り添おうとする、不思議な子だ。離婚した時には、ずっと私の傍にいてくれた。私はその毛並みを撫でながら、ありがとうと言った記憶がある。とにかく大きいキジトラで、ボスとしての風格がある。ボスは痛みに寄り添える器がなければいけないと、この子を見るたびに思う。 祖母の日常は忙しい。一人暮らしをしているこの家で、七人の猫たちと生活している。この時間がずっと続けばいいとは思う。また私は考えなくていいことを、考えている?人は必ず死ぬ。動物だって死ぬ。ここは、静かな時間が流れている。それを怖いと感じる私は感受性が鋭すぎるのだろうか?いつかは終わるこの時間。それを頭の片隅に何気なく感じて、私は猫たちに触れている。静かな時間。祖母はこの時間に辿り着いた。私はその時間に、時々居候する。ストレスの無い猫たちは、だからこんなに大きくなるのだろう。母の話は私からはしない。祖母からもしてこない。だから今は、このままでいいのだろう。祖母がいて、家があり、そこに猫七人がいる。それが今だ。二番目のチャプは、人間でいうと神経質なナルシストという感じだ。目がとにかく大きい。今は鍵のペンダントトップをつけている。祖母は器用にネットで注文する。今までは既製品を買っていたけれど、飽きてしまって人間が身につけるペンダントトップを買い、首回りを測り、チョーカーを特注して組み合わせている。私は猫は嫌いだった。冷たそうだという先入観から。ここに来て、私の意識は変化した。冷たいのではなく、繊細だ。人間くらい、心が繊細。ミントは私に寄り添ってくれた。チャプはよく、こつんこつんと頭つきをしてくる。これは友好の証らしい。一人では生きられないということは知っている。でも今は、私は人に疲れているのかも知れない。祖母は言葉にしないけれど、そんな私に気づいている。だから何も言わずに受け入れてくれるのだろう。食べて、遊んで、気持ちよさそうに眠る。繊細だけれど良い意味で冷たい。私が私のままでいられる。しっかりしなくてもよいのだ。だからといってしつこくすると、逃げる。適切な距離を取らねばと反省する。三番目のモモは、引きこもり。気に入っている部屋から一切出てこない。目がギョロっとしていて、きつい印象。思春期の、男子嫌いな潔癖な女の子という感じだ。ただ、ピンクのキラキラ光るペンダントトップをしているので、全体的にかわいい印象はする。私を見るたびに、シャ~と威嚇する。どうやらこの子とは、仲良くはなれないらしい。人間も猫も、相性というものがあるらしい。祖母の家の子は、七人全部、去勢、避妊はしてある。子供をつくるのは簡単。育てられなければ意味がない。私は子供を望まなかった。それが離婚の原因の一部にはなったのかも知れない。私は生まれてきてよかったとは、未だに思えない。これは甘えなのか?無知で馬鹿な思考なのかは、自分ではよく分からない。祖母の家の子たちは愛されている。ただ祖母がいなければ、生きてはいけない。それをこの子たちは理解してないよね。私は自分で生きていかなければならない。それがこの子たちとの違いだ。お腹がすいて鳴いても、誰も与えてはくれない。私は何気なく、日々闘っているということを、この子たちと接することで、気づく。ミントはそんな私の内面に気づいている。目を見れば分かる。私の内面を見ている。別れた夫は私の内面を見てはくれなかった。深奥で繋がれなかった。今となっては何で結婚なんかしたのだろう?と、素直に思う。子供がいなくてよかったと、素直に思う。時期が来たら結婚するもの。そんな感覚で私はしてしまった。時代は変化している。過去の価値観の踏襲で、今という時代は生きられない。これから私はどんなふうに、生きていけばいいのだろう?ベンチマークとなる人が、周囲に見当たらない。それでも毎日は、蓄積されていく。私はきちんと働いているし、誰にも迷惑は掛けていない。離婚して、子供はいないけれど、そのことに私自信が罪悪感を感じている。いつまで健康でいられるのか、分からない。何気ない、そんな恐怖感がある。祖母も私も、猫たちも、いずれ死ぬ。猫たちと過ごすすぐ裏側に、その真実は、ある。祖母の家で暮らす猫七人は、一日が、家の中だけで終わる。獣医さんから、外に出さないで欲しいと言われたらしい。清潔な環境で、食べ、遊び、眠る。毛並みに鼻をうずめても、動物の匂いがしない。祖母は猫たちに愛情を注ぐ。猫たちは、祖母に甘やかされている。専用のソファーを買ってもらい、暑くもなく寒くもない部屋で、日々、当たり前のように過ごしている。私には、将来に対する漠然とした不安がある。それをこの子たちは、感じることがあるのだろうか?働くことで、私は生きられる。それを思うと何やら複雑だ。働いていない動物たちに、癒されている。愛情を注ぐ対象がいるから、人は頑張れる?私には、子供がいない。だから頑張れる対象を求めて、ここにやって来るのだろうか? トラいちは、保護した時には歯が歯周病で、息が臭かった。歯が抜けることで、口臭が消えた。自分の体より大きな鳥の足を咥えて祖母の家に来たらしい。この子なりに、必死に生きてきたことを思うと、それを思うと、祖母は保護をした。祖母が抱っこをしてあげると、そのまま気持ちよさそうに寝てしまったことを、私は記憶している。去勢をしたら、ミントと同じように、太ってしまった。同じ、キジトラだからだろうか?祖母は今でも言う。「人間が、みんな悪い」と。「かわいいだけでは育てられない」と。私は子供を持たないことに、割り切れない罪悪感が混じった気持ちがある。祖母の言葉に、私は自分を正当化しているような気もする。母は、経済的に自立が出来た人だった。それは祖父と祖母のおかげだろう。だから自由に生きられ、今は私との繋がりが途絶えているのだろう?トラいちは、今は三日月のペンダントトップをしている。曇り空の三日月を見ているよう。それにしても祖母は、その子にあったデザインを選ぶ。それが若さを保てる、ひとつの原因なのかも知れない。ミントとモモは、私が名前を付けたけれど、今となっては、それは失敗だったと祖母はぽつりと言った。名前とその子が合っていないらしい。私はチャプという名前はおかしいと思ったけれど、今となってはぴたりとリンクしている。どうやら名前を付けるのも、コツがあるらしい。その子を観察し、内側に入れて、その子がもともと持っている名前を感じとってあげるのだそうだ。私にはよく分からない。名前を付ける才能は、私には無いということを知った。ミント、モモ、ごめんなさい。五番目のすづは、すずではなく、すづ。ずを、づにするところが祖母らしい。観察していると、やはりすずではなく、すづなのだ。ペンダントトップは今は、ハートの白珊瑚。前はクロスの翡翠をしていた。この子は淡い色が似あうと祖母は言っていた。獣医さんに、この子は品格があると言われたことを思い出す。しっぽが長い、三毛猫だ。真正面から見るとブスだけれど、鼻が高いので美人に見える。祖母がトイレにいくとついていき、便座に座ると祖母の肩にずっと乗っているらしい。祖母は私に教えてくれた。「何でだろうねぇ」と笑いながら。祖母がお風呂に入る時もついていき、お風呂の蓋を半分だけしてあげると、その上に乗っている。 「早く出ろっていうのよ」と、祖母は笑って言う。猫は不思議だ。私に見えていないことが、見えているのかも知れない。今の私には、感じ取れない感情も、複雑に動いているのかも知れない。すづは、やきもちやき。祖母の布団によくおしっこをする。防水シーツはしてある。祖母がほかの子をかわいがると、する。「子供と一緒だねぇ」と、祖母は言う。祖母は一日に何度、洗濯をするのだろう?猫が七人いるけれど、来るたびに、動物の匂いがしない。「うちの子は、柔軟剤の匂いが好きだから」と、祖母は言う。  一番気の合うのが愛夢だ。あいむではなく、らいむ。横から見ると、お腹にハートのマークがある。ある日祖母の家に来ると、出迎えてくれた祖母のエプロンのポケットから、小さな顔が覗いている。それが愛夢だった。三百グラムの時、保護したことを、今でも祖母は言う。「三百グラムの愛夢ちゃん」と。家の庭で保護した時には、片目がただれ、震えていた。オス猫と思われる大きな猫から、母親と思われる猫が必死に愛夢を守っていたらしい。愛夢の兄弟と思われる子猫が、近くで死んでいて、祖母はシャベルで穴を掘り、埋めてあげた。あの子も保護してあげたかったと祖母が言ったことを、私は憶えている。きっと愛夢のように、賢い子だったに違いない。愛夢は今でも片目が白く濁っていて、でも見えてはいるようだ。元気に走り回っている。サージカルステンレスの、青色の大きなクロスのペンダントトップをしている。愛夢を保護してしばらくは、母猫が愛夢を返してくれと、家の外で鳴いていた姿を、私は見ている。返したら、愛夢は死んでしまっただろう。祖母の愛情で、愛夢は回復した。病院に連れていき、膿を綺麗に拭いてあげ、目薬を根気よく付けてあげる。回復した愛夢がガラス越しに、母親とジッと向かい合っている姿を、今でも思い出すことが出来る。それから母親は来なくなった。あの時、愛夢と母親は何を話したのだろう?だから愛夢と私は、相性が合うのだろうか?愛夢は私には、歯磨きをさせる。指に付ける歯磨きを、ネットで買ってあげた。歯磨きをさせるのは、今のところ愛夢だけ。仰向けに寝かせてしてあげると、気持ちよさそう。すごく神経質な子で、匂いに敏感だ。お風呂に入らないと、近寄ってこない。ボディシャンプーの匂いが好きらしい。それでも簡単には近寄ってこなくて、クンクン私を嗅ぎ、納得すると股の中に入ってくる。牛模様で、黒の部分が黒光りしている。ブラッシングが好きで、自分から求めてくる。とても清潔な子。ほかの子がしたおしっこの場所を、祖母に教える。砂をかけるように、前足で神経質にかく。「愛夢のおかげで、臭い場所がすぐ分かる」と、祖母は笑う。 最後はYと。ホワイトの“ホ”を外してワイト。で、Yと。母猫と一緒に祖母の家にご飯を貰いに来ていた。母猫を、私と祖母は、マロと呼んでいた。二つの目の上に、太い黒のマジックでなぞったような模様があったからだ。ご飯を貰いに来るけれど、近づくと逃げてしまう。ある日、Yとはフラフラで、そこを祖母は保護したらしい。重油のようなうんちをしたらしく、その写真を見せられた。医者に連れていっても何も食べず、体力が落ちすぎて、自分から食べることが出来なかったようだ。祖母は強引だけれど、指にやわらかいキャットフードをつけて、口の中に押しこんだ。下の歯から、二本の長い牙のような歯が生えている。一日中、どじょうすくいをやっているような顔。寝ている姿がネズミのよう。元気になって、今では愛夢より大きい。牙を切ってあげたいと思い、祖母と病院に連れて行った。牙を切ると、もしそこから菌が入ると危険なので、専門医を紹介すると言われたけれど、そこまでリスクを取ってまでと思うと、決断が出来なかった。保護するまでの過酷な生活で、Yとは鼻が悪く、一日中ズーズー言っている。未だに朝起きると、目ヤニと粘り気のある濁った鼻水で、顔がべたついている。祖母はティッシュにぬるま湯を染みこませ、綺麗に毎日拭いてあげる。「まだこんなにばい菌が出るんだから」と言いながら。ペンダントトップはモアイ。私が買ってあげた。祖母の影響で、ペンダントトップをネットで何気なく見るようになった。そこで気になったのが、モアイだった。Yとに似合うと思った。今までは、メキシコの職人が作った緑色のミュージカルボールをしていた。Yとが走るとシャリシャリと、空気にリズムが染みこむような音色がする。「私は、ミュージカルボールのほうがいい」と、祖母は言う。でも今はモアイをつけている。大きくなったら水で薄めたような茶色が出てきたので、モアイの色とうまく同期していると、私は考える。いつの間にか、祖母と暮らすようになったから、私の価値観も、認めて欲しいのかもしれないと、自分に対して思う。家賃の支払いが消えたことに、感謝をしている私。食費だけで生活できるのだから、給料は上がらないけれども自由な感覚が心地よく。祖母がバランスの取れた食事を毎日提供してくれる。祖母と猫七人と私の共同生活。もうこのままで、いいような気もするし、もちろん不安だって感じている。ずっと続く筈はない。そんなことは理解している。私が離婚するなんて、そんな筈はないと思っていた私が、離婚したのだ。現実を、受け入れなければいけない。未来を考え過ぎるから、目の前の絶望にすぐ死にたくなるのだろう。思い通りにいかない。毎日いらいらする。年齢のせいだから?今は、祖母と猫たちとの生活を守れればいいと、考えるようになった。目の前には祖母がいて、猫たちがいる。食べて、愛されて、眠っている。この子たちは、祖母がいるから生きられる。皮膚の外側にある現実に対して、私が興味を持たなくなっていることに、何気なく自分で気づいた。自分に対する悪意には、敏感に反応するけれど。生きてきた。これからも、私は生きていける?いい意味で、私は未来を考えなくなった。過去を昇華することに、結構なエネルギーを使っている。自分の質を、高めなければいけない。私にとって害のある人は、自然に離れていけばよい。人も大事。でも私の気持ちだって大事。それでも朝になるし、会社に行けば忙しい。私は人間らしく、生きているよね?これでいいよね?そんな何気ない不安は、感じないようにはしている。猫たちは、そんな私と適度な距離を取っている。だから自分を不必要に感じない。廊下に何気なく立っていると、チャプがスリスリしてくる。私がしゃがむと真っ白いお腹を見せる。背中から横にかけて、白と黒と灰色が、うまくかき回されている。チャプの高い鼻が好き。左側に、薄い茶色の染みのような模様が出た。かわいらしい。大きな目で、真正面から見られると、人間に見られているように錯覚する。いつものように、ちんちんを触ってあげる。三本の指で、ティロリンティロリンと、リズミカルに動かしてあげると目がウットリする。そのうちウ~と唸り、フン!と鼻から息を抜く。肉球を握り始める。細い赤い棒がニョキっと出る。それを見る祖母は、「チャぁ~ちゃん!」と私とチャプを怒る。神経質の子で、一時期足と手の毛を舐めて、毟ってしまった。見た目が違う生き物のようだった。祖母や私が話しかけながら撫ぜることで、改善していった。ほかの子に比べると、手が掛かる。尿路結石にもなった。ほかの子より、尿道が狭いらしい。かわいいだけでは、育てられない。働くモチベーションには、なる。自分のやっている仕事に、それ程の社会的な価値がないと知ってはいるけれど、猫たちと関わることで、精神的なバランスが取れている。いつ辞めてもよい。会社に対して未練はない。目の前の生活の為に働いている。それでいいではないか?今は、祖母と猫たちと、私の生活を大事にしたい。今は精神的にも肉体的にも調子がいい。そんな些細なことがこんな歳になって、幸せなことなんだと、少しだけれど実感できるようになった。誰かの為に生きる。私は離婚してしまったし、子供はいない。その感覚に未到達のまま。でもあのまま結婚生活を続けていたら、私の精神が壊れていたと思う。今は、猫と祖母に美味しいものを食べさせたいと思う。家賃が浮き、ネットを使うことで、食材の質が上がった。祖母は料理が上手。祖母は私の体を気遣ってくれる。心配してくれる。それが何よりも、精神的な癒しになっていることに、私は気づく。今を生きよう。私は孤独ではない。なにより精神的に苦しくない。日々、自分に対する悪意と何気なく闘っている。家に帰ると祖母と猫たちがいる。漠然とした未来への不安。でも今は、祖母と猫たちが寄り添ってくれるから大丈夫。Yとは私がトイレをしていると入ってきて、待っている。立ち上がると便座に両手を掛けて、トイレットペーパーが流れる様子を見ている。流れ終わると納得したように出ていく。その出ていく姿が面白い。トイレの戸を、完全に閉めずに入るのはそのためだ。猫中心のリズム。このリズムも悪くない。猫七人になったからと言って、祖母が三万円もする猫タワーを買った。前のタワーにはバケットが三つあって、そのバケットを取り合う喧嘩には気づいてはいた。モモが周囲をイライラしたようにウロウロする。祖母がそれを見て、「バケットがいっぱいだから」と、タワーを見上げる。仕方がないからトラいちを降ろす。降ろした途端にモモが駆け上がる。「とー君が最初に取ったのにね」と、祖母がトラいちを抱きしめる。だから祖母は猫タワーを買ったらしい。組み立てたのは私だ。夏の暑い日、疲れた。その猫タワーは、うまく機能している。古い猫タワーと新しい猫タワーに、うまく分散している。それぞれが、それぞれの場所で、居心地よさそうだ。個性がある。祖母はそれをきちんと理解している。今の私に、そんな余裕なんて、ない。自分のことで、精一杯。一人では、生きられないのかなぁ?最近何気なく、そんなことを感じている。それでも。私は離婚を後悔していない。恋愛も、求めてはいない。自分を高めなければ、過去の繰り返しだと思うから。恋愛は、そんなに楽しくない。それを、私は知った。他人の人生に踏み込んでいくことに、今は素直に恐怖を感じる。私は私の人生を生きなければいけない。恋愛を煽る情報に、今は辟易する。自分の内側で、何かが変わり始めている。自分にとって、本当に大事なこと。もっとシンプルに、なれるかも知れない。そんな予感がする。食べる。遊ぶ。寝る。猫を見ると、シンプルに生きている。掃除が大変。掃除機を掛けると、ごっそり毛が取れる。それを見るのがなぜか好き。落ち着く。忙しすぎる毎日。でも生活の基本はシンプルだ。食べる。働く。寝る。私は私の範囲内でしか働けない。離婚はしたけれど、別に孤独ではない。何気なく、それでも私は生きている。退屈な日常に、今の私は苦ではない。やってみたい事があって、だから退屈な日常に焦燥を感じていたのだろう。恋愛がそうだった。やってみて、だから今の私は落ち着いていられる。好き。好きという感情。今はそれが自然な感情だったと思えない。滑稽。そんな感情だったとさえ思う。若さの衝動には思想がない。これからは、もっと慎重に生きねば。ふとした隙間に現れる、過去の記憶。日常がごちゃごちゃしているから、適度に自分と距離を取れているのだと思う。正しく、私は生きているだろうか?騒々しく朝が始まる。祖母と分担して、八個のトイレシーツの交換をする。猫の人数+①が理想ということを、祖母から知った。猫のおしっこは強烈な刺激臭がする。匂いで殺意が溢れる経験を、初めてした。自分の部屋に、私は猫を入れない。祖母の部屋で、何度も粗相するのを知っているからだ。だから祖母は、防水シーツを買ったのだろう。私は猫と、距離を取りたい。だから部屋には入れない。ただチャプはドアに、よくおしっこをする。だからドアにはトイレシーツを貼っている。猫は、人間に近い感情を持っている。共同生活は難しい。今まで向き合ったことがない感情と、日々、格闘している。かわいいだけでは無理。毛と匂い。感情のままにするほうは、いいだろう。その刺激臭と日々闘う私と祖母は、おそらく膨大なエネルギーを消費している。ある日、人が来た時に、この家はペットの匂いがしないと言われた時は、日々の努力を認められたようで、私と祖母は嬉しかった。猫タワーに付いている爪とぎでガリガリするので、柱も綺麗なままだ。ペットではなく、家族。自分のことだけで精一杯だった私の内側に、猫たちを受け入れる領域が、少しずつ広がってきているような気がする。寂しくなると、祖母の家に遊びに来ていた。そこには猫がいた。触れ合って癒されて、私は帰った。今はその猫たちと一緒に住んでいる。「かわいい」だけでは済まなくなった。この子たちを、理解しなければならない。感覚的に接することで、私は癒されていた。祖母はいつも寝不足だ。「昨日も足が伸ばせなかった」と、起きてくる。「足元に愛夢とYとが寝てて」と。猫の気まぐれに、でも祖母は嬉しそうだ。私には仕事があるから、寝なければいけないから、今はそこまで受け入れることは出来ない。きっと私は日々、変化している。その変化に、祖母も猫たちも、気づいてくれる。適度な距離感が、心地いい。個性が楽しい。ボスであるミントは寝ていることが多くなったような気がする。大きな体躯になった。出会ってから、十年が過ぎている。ずっとこの家で、時間が過ぎている。猫たちも私も、必ず死ぬ。静かに過ぎている時間の裏側を、私は何気なく気にしてしまう。愛されて、お腹いっぱい食べて、健康で。祖母に買って貰った専用ソファーで、仰向けで寝ている。祖母は静かに、猫用毛布をかけてあげる。私と祖母は、その寝姿を見て、微笑む。これでいいような気がする。現実から、目を背けているわけではない。私は私の現実を生きている。子供を持たない罪悪感のようなものに、この子たちと生活していることで、私はわたしでいられているような。個としてだけでは生きられない。そんなことは、ちゃんと理解している。集団の中にいる。その中で、適正な距離を取らなければ、私が消えてしまう。それでも何とか生きてきた。人を見る視線が、純粋に若い時とは変質している。無意識に、意識下のアップデートが行われているのだろう?だから不意に、自分が壊れることがある。何も出来ない日がある。食べて、遊んで、寝ている猫たちに、そんな私は癒された。人間を、どんな視線で見ているのだろう?ミントは人の心に敏感な子。最近は、背中を揉めと、祖母と私に催促する。「私が揉んでもらいたい」と、祖母は言う。十一キロになったミント。横から見ると、四角に見える。去勢をしたら、太ってしまった。キジトラの模様が、たまにニシキヘビに感じる。抱っこをしながら背中を撫でていると、ニシキヘビの一部分に見えることがある。太らせることは、虐待だという書き込みを見たことがあるけれど、あげるまでミントは鳴く。毎日葛藤して時間が過ぎて、結果、太ってしまった。これは虐待だろうか?定期健診もしている。不意な視線で、考えたこともない疑問に、何気なく苦しむ。食べたいときに食べられ、ストレスのない環境。祖母と私にとっては毎日一緒にいるから普通だけれど、たまに来る人にとっては、大きく見えるらしい。私は毎日仕事に行き、祖母と猫がいる家に、帰ることが出来る。これが、私にとっての普通になった。私は、感謝をしなければいけない。「私だってやっている」などという、ちまちました感情が、自分にとって最近嫌になっている。老いたのかも知れない?祖母も私も猫たちも、今は健康。それだけで、今の私は涙が出そうになる。一日終わって眠る前に、「ありがとうございました」と手を合わせたくなる。今の私は寂しくない。家に帰ると、祖母が今日の猫たちとの格闘を語ってくれる。祖母は定年してから、ずっと家にいるけれど、やることがあり過ぎて、忙しい。一日何度、洗濯するのだろう?「愛夢ちゃんが、臭い場所を教えてくれるから、この子は本当にいい子」と祖母は言う。愛夢は粗相しない。決められた場所できちんとする子。うちの子は、外には出さない。窓の外側に猫を見つけると、窓のサッシにおしっこをする。気持ちは分かるけれど、溢れてくる感情が殺伐とする。飼うなら、家の外に出すなと祖母と言う。縄張り意識が強いミントとチャプが、する。猫の世界にも、合う合わないが、明確に存在するらしい。外猫を見ても、ただ黙って観察している時もあれば、狂気じみた声を出して、威嚇する時もある。誰とでも、仲良くはなれない。誰とでも仲良くしなければいけない。いつのまにかすり込まれたこんな概念に、長い時間、苦しんできたような気がする。適切な距離感が大事。相手の気持ちも大事。自分の気持ちも大事。それを俯瞰しても、合わないことは、仕方ないのかも知れない。私の気持ちは進んでは、後退する。その逡巡に、毎日苦しい。ミントとトラいちはキジトラ。チャプとモモはサバトラ。愛夢は牛柄。すづは、三毛。Yとは白。逡巡する毎日に、頭の中の七人の猫を整理することで、うまく気が紛れるみたい。何かしら、毎日起こる。掃除も頻繁にやらなければならない。独り暮らしのスキルとは別のスキルが、身に付いたかも知れない。予想していた未来とは違う現実を、今、私は生きている。過去は過ぎた。でも未だに私の内側で終わっていない。母とのこと。離婚したこと。仕事のこと。無意識にあること。明確な答えが出ないまま、私の気持ちは不安定に揺れている。曖昧を抱えたまま、歩き続けている。子供から大人になっても、不安が消えない。祖母もきっと、こんな感じで生きてきたのだろうか?起きて、食べて、遊んで、眠る。そんな猫たちを、祖母と私はサポートしている。食べ物の好みもそれぞれ違う。愛夢はシラスが好きだけれど、釜揚げシラスでないと食べない。そんな些細な好みが面白い。同じ家に住んでいるのに、モモとトラいちとは、たまにしか会わない。すづはやきもちやき。ベタベタされることに、最近私が嫌になる時がある。人間の女だったら、めんどくさい女だと、思われるタイプかも知れない。ブラッシングが好きな子と、そうでない子。チャプはブラッシングが嫌い。だからよく毛玉を吐く。最初見たときに、毛虫がいるのかと思った。よく見ると、チャプが吐いた毛玉だった。猫中心の生活になっている。どっちが飼われているのか分からない。猫たちは、優雅な生活をしている。祖母が家と豪華な食事と医療とおもちゃとファッションと愛情を提供している。それでも、「この子たちは、この家に来て、幸せなのかしら?」と祖母は言う。私は祖母の家に居候。私は十分に幸せを感じている。最近自分と祖母が、猫たちの豪華な生活を支える、奴隷のような気がしている。この感覚は、私の被害妄想だろうか?猫たちとの生活で、癒されてはいるけれどもストレスも感じていることは、事実だとは思う。適度なストレス。思うようにいかないことが、自然だと思えるようになってきている。心配しなくても、必ず何かが起こる。祖母は、目の前のことを楽しんでいる。私の目には、そう映る。猫たちが眠ると、祖母は絵を描き始める。その部屋には、猫たちも私も入れない。祖母だけの部屋。完成した絵は玄関に飾られている。今は三枚。猫の絵。一緒に生活しているのになぜ描くのだろう?と思う。「写真を撮るのと一緒」と祖母は言う。そう言われると、納得したような気になる。だったら写真でよくない?と私は思う。「描きたいから描く」と祖母は言う。私には、よく分からない感覚。描きたいから、描いている。祖母は自分をしている。そんなふうに私は思う。やりたいように出来る時間が、祖母にやってきた。これ以上、私が祖母について、考える必要があるだろうか?私は居候。それについて、祖母から何も言われない。食費はきちんと入れている。「それでいいじゃない?」と祖母は言う。この家に入ってから、母の話は一度もしていない。自然にしていない。記憶にあるから、思い出すことは出来る。この家にいると、思い出させる圧力がない。母に食事を作ってもらったことは、数えるくらいしかないという記憶。祖母は毎日私に食事を作ってくれる。私は癒されている?不自然な毎日ではないような気もする。正しい家族のあり方ではないような気もする。でも私はこの家に、吸い込まれるように、それも自然に入ってきた。祖母のいる、猫七人がいる、家。母は母親だけれど、家族としての繋がりを持てなかった。母は女として生きている。そのことについて、軽蔑もしないし不思議となんの感慨もない。私は居場所を求めて彷徨っていたような気がする。現実とは、こんなものだった。それを理解するための時間だったような気がする。私はこれからどう生きていこう?今死んでも、私は後悔しない。でもまだ死ぬわけにはいかない。やり残したことは別にないけれど、それほど変化のない毎日だけれど。自分に対して納得のいく答えが出ていない。だから。まだ死ねない。生まれてから、気づくと死を意識していたような記憶がある。楽しい時間は続かない。感情が揺れる。その揺れに、絶えず苦しんできたような気がする。自分に対して、「だったら死ねばいい」と、何度言ってきただろう?今ここに生きていることが、きっと運がいい。それでも私は生きてきた。今となっては滑稽な気がする。こんな感じで、私はこれからも生きていくのかも知れない。思い通りにいかない。そのことに対して感情が揺れる。無意識にある自分の感情を感じることで、自分の危機が意識に投影される。うまくバランスを取らなければ。死は近くにある。祖母とは何気ない会話しかしないけれど、祖母の絵を見ると癒される。祖母は祖母で、描くことで内面を昇華させているのだろう。過去は過ぎたけれど、終わってはいない。私は私で歪みを抱えたまま、今日も日常を生きている。目の前の現実は、こんな感じで進んでいる。時代も私も、正しい方向に進んでいるだろうか?なるようにしかならない。今は自分に対してそう思える。思春期のような、焦燥はない。この精神状態が、今の私を救っている。自分の都合だけでは生きられない。どうでもいいことに真剣になり過ぎて、今までの私は疲れた。まだ生きられるエネルギーは残っている。少しずつ私の中で、何かが変化している。私はきっと、いい方向に向かっているような気が。依存するから、裏切られたと感じるのだろう?孤独は痛くなかった。個としての私の輪郭。それさえはっきりさせておけば、いいじゃない?人混みのなかにポツンといても、今の私は平気。過ぎていく時間を、今の私は恐れない。もっともっと私が揺れればいい。もっともっと私は自分を考えるだろうから。何気ない日常の中で、私はこんなにも揺れている。周辺にはきっと、美しいもので満ちている。今の私は、それを感じ取れていないだけ。それを私は知っている。今は生きなければならない。私はまだ辿り着いていない。祖母は辿り着いているのかも知れない?祖母と生活するようになって、気づいたことがある。個としての自分が取り残されていくような感覚。祖母はそこにいるのに、そこにいないような。もしかしたら、実在していないのかも?そんな錯覚を、たまにする。現実は、ゆっくりとしか進まない。そんな現実を、祖母は生きてきた。今はその現実と、距離を置ける環境にいる。この家は祖母の世界。祖母の頭の中。そこに私がいる。今の私には、過剰なのかも知れない。時間は静かに過ぎているのに、不安になる。居心地の良さに、罪悪感を感じる。私はどうすればいいの?祖母には祖母の時間が流れている。その流れに、私の時間が弾き飛ばされてしまいそうで震えそうになる。今の状態では、地球上のどこに行っても、この感覚からは逃げられないだろう。私は自分と向き合わなければならない。まどろっこしい時間。その果てに、祖母のような素敵な女性になることが出来るだろうか。自分の感情なのに、信用できない時がある。借り物の感情だと、気づく時もある。孤独。寂しい。友達。恋人。殺意。記憶。母。祖母。頭の中が雑然としていて、その中に私がポツンとしていて、どこに向かったらいいのか分からない。それでも目の前には現実があって、大部分のエネルギーを使わなければいけない必然がある。不必要な記憶とも、対峙しなければいけない。私は個としての自分を高めたい。だから無意味な飲み会には参加したくない。お金とエネルギーの無駄。内面を高めることで、静かに自然に求めていない繋がりが切れていくだろう。「おしゃれ」をしなさいと祖母は言う。私は洋服に無頓着だった。祖母がネットで検索し、私に似合う洋服を選んでくれた。「今はネットで買えば安いから」と祖母は言う。私の感覚では買えなかったデザインの洋服で、着て、鏡を覗くとかわいい私がいた。「おしゃれって楽しいでしょう?」と、そんな私を見て祖母は言う。複雑。気持ちがね。私より、ずっと年齢が上なのに。私より感性が若い。「洋服一枚で、気持ちがわくわくするでしょう?」と、祖母は言う。 「高いか安いかじゃないの」 「うん」 「より自分を素敵に見せてくれる着こなしが、おしゃれ」 「うん」  と私は言うものの、よく分からない。  ただ自分の中に、今まで感じたことのない、ときめきのような感覚が、ある。この感覚を、私が「楽しい」と感じている。祖母が母だったらよかったのにと、何気なく思う。私は自分にとって無意味なものを、少しずつ自分から剥がしていこうと思う。そのきっかけを、祖母が与えてくれたような気がする。現実を生きなければいけない。でもその現実と、適正な距離を取らなければいけない。 「皮膚と、現実の間にあるのが洋服」  と、祖母は言う。 「あなたは、あなたでいいの」  と、祖母は言う。  嬉しかった。 何気なく嬉しかった。 私は私でいい。祖母の客観的な言葉で、私は自分を取り戻す扉に辿り着いたような気がする。生理的に無理な人を、今迄は無理やり好きになろうとしていたような気がする。私は完璧な人ではない。社会的に通用する人格は、最高到達点にまで高めた自負はある。もう疲れた。私には限界がある。あったことを、社会に出て強引に知った。私は自分の輪郭を知った。それを残酷な現実と捉える人もいる。私は自分の輪郭で生きなければならない。無意味な飲み会に付き合うことは、私にはもう出来ない。世の中があって、私がある。その世の中に対して、苛立たしさという感情が、私の内側の隅っこに絶えずある。でもあの時のように、私はもう強くない。世の中に対して孤独に戦える程、私はもう強くはないのだ。もう疲れた。仕事も恋愛も、世の中の価値観に対しても、疲れた。何不自由なく、一日は過ぎていく。もうそれでいいではないか?これ以上、何を考えなければいけないのだろう?不完全な自分に、何とか折り合いをつけながら、今の私は何とか生きている。自分を掘り下げることに、素直に疲れた。お腹が減る。おいしいものが食べたい。だから私は一生懸命朝起きて、毎日仕事に行っているではないか?これ以上、私に何をしろと?そんな何気ない憤懣がある。特別贅沢をしているわけでもなく。祖母の家にお世話になっているけれど。私より、きっと猫たちのほうが贅沢だ。寒くもなく暑くもなく。働きもせずに、おいしいものがいつでも食べたい時に食べられる。寝たい時に、寝たいだけ、やわらかい場所で眠れる。そんな猫たちに、今の私は癒されているだろうか?私は人間であることに、幸せだろうか?考えることで、私は救われている。過去に打ち克ちたい。他人との距離感は日々変化する。それが最近何気なく面白い。有利不利は、日々変化する。私の中で、裏切る準備は出来ている。私は大人だから、エレガントにそれを遂行しなければならない。孤独は怖くない。過去に疲れた。材料はきっと、私の内側にすべてある。 「そんなに考える必要はないと思う」  不意に祖母は言った。 「なるようにしかならないんだから」  祖母は微笑んだ。 「そうだね」  と私は言った。  母の話は今でもしていない。無理に話さないわけではなく。それでも祖母と私はここにいる。きちんとね。私は正しい命の繋ぎ方に、違反している?そんな罪悪感が、少しある。それを祖母が気づいてくれたのかも知れない。 「もう疲れた」  と、私は祖母に言った。 「なに言ってるの!」  と祖母は笑う。 「私がYとに買ってあげた、モアイのネックレス、またミュージカルボールに替えたでしょ?」 「あの子はあれが一番似合うのよ」  と祖母は素っ気なく言う。  Yとはそんな祖母と私の目の前を、シャリシャリという音を立てながら、走っていった。その後を、愛夢が追いかけていく。 「ね?」  と祖母は言う。やっぱり似合うでしょ?という意味らしい。私の視線はYとを追う。 「うん」  と私は言った。私には、祖母のようなセンスがない。母にもそんなセンスは無かったような記憶がある。隔世遺伝として、私にセンスが入っていない。祖母は繊細で、感性が鋭い。老後の生活を、だから楽しめているのだろう。祖母のような人生を踏襲したいと思うけれど、祖母が生きた時代と今を生きる私の時代は違う。祖母は祖母で独立している。祖母は価値観を私に押し付けるようなことはしない。今は猫たちに、真剣に向き合っている。それは何かに対する贖罪だろうか?母と祖母との関係。そんなことは考えもしなかったけれど。今はゆっくり過ぎている時間。私の体内を流れる血液には、どれほどの記憶が溶けこんでいるのだろう。私が生まれる前。母。祖母。源流から私まで。そうやって、それでも私はここにいる。当たり前のことだけれど、気づいたら人生が始まっていた。未来はどうしてあんなにも輝いて見えたのだろう。それが今になって恥ずかしい。生活出来ているのだから、それでいいではないか? 「価値観なんて、相対的なものなんだから」  と祖母は言う。 人と関わり合い過ぎたから、自分が苦しくなったのかも。何だか自分がよく分からない。それでも日は昇るし沈む。もっとシンプルに生きられる筈なのに。生に対する執着はなく。それでも死にたくはない。取り敢えず。だから生きようと思う。きっと私の内面は動き出すだろう?取り敢えず、私は生きている。それでいいではないか?世の中は激しく動いているけれど、私はこれでいいではないか?もう疲れた……。生に対する執着はないけれど、死にたくはない。私は今、どこにいるのだ!どう生きればいいのだ!そんな疑問を抱えたまま、私は今、生きている。些細な感性で捉えられる現実に、今現在を生きる私は癒されない。今現在を生きる私は贅沢なのだろうか?私だって、今現在を必死に生きているのだ! 「もう疲れた」  祖母に叱られた言葉だけれど、  それでも! 「もう疲れた」 なのだ。  私は今という現実を生きている。  私は過去を生きた、祖母ではない。祖母は余生を猫たちと楽しんでいる。しっかりと、今という時間を捉えている。私は目の前に流れる時間を、必要最低限のみ捉えている。サッサと過ぎてしまえばいい。それが私の今現在の日常だ。このずっと先に、祖母のような時間が私に訪れるだろうか。気づいたら、私がすでに始まっていた。これが私の現実だった。生きているとは、すごいことなんだと何気なく思う。私が私を生きようとしている。だからこんなにも、苦しいのだろう?だから私は早く過ぎて欲しかった。自分にとって、居心地の悪い時間が、早く過ぎて欲しかった。学生の時、私は放課後が好きだった。早く帰りたかった。あの時の感覚と、今の私は何も変化していないような気がする。私の本質は、少しも変化していない。自分で自分を滑稽だと思う。孤独をつよく感じた学生時代。今はその感覚はない。だから今の私は純粋な若者が、滑稽に見えるのだろう。静かな日常だけれど、私の視線が変化する。そのことに、今の私が戸惑っている。大人の視線を持たない純粋さは、きっと馬鹿なんだと思う。好きだから。きっと今、こんな言葉を言われたとして、私の感情は激しく揺れるだろうか?恋愛の現実を知っているというつよみ。恋愛はそれほど必要だろうかという、気持ちの余裕が今の私にはある。現実を知ったから?今の私は恋愛を純粋に楽しめないだろう。いつの間にか大人になっていて、自分が若者であった時間をうまく思い出せない。きっと、必死だったのだろう。過去が、今になって過ぎていく。本当の私の時間が、少しずつ動いていっている。目の前を過ぎている時間に、私は自分の距離で接しなければ。きっと私はこれでいい。ずっとそうやって私は、自分の輪郭を保ってきたのだ。私には、私の生き方がある。相対的な価値観で、いつもイジイジしているけれど。あるがままに、私は逃げる。今はそれを卑怯だとは思わない。もう疲れたのだ。過去を受け入れ始めている。だからこんなにも、エネルギーを消耗してしまうのだろう。 「もう疲れた」  と、内面で言ってみる。  私は私の時間と向き合っている。こんな感じでこれからも、きっと過ぎていくのだろう。私の日常の、精神の揺れ。どうか大きな揺れにより、私が崩壊してしまわないように。どうか祖母の場所まで辿り着けますように。日常は大きく変わらない。だから変化が欲しくなる。大丈夫。私は素敵に揺れている。私には、今は祖母がいる。祖母の素敵な揺れに、私が同期し始めている。母は音信不通。その感覚が空気のようになったことに、自分という人間に対して怖くなる。母に対して傷つかなくなった。これは成長なのか拒絶なのか?自分でもよく分からない。私は冷たい人間だろうか?自分の中で、一つ答えらしきものに辿り着くと、また別の揺れが溢れてくる。都度、向き合わなければならない地味な作業。いつの間にか、睡眠と適度なアルコールが何より好きになっている私。別に仕事は嫌いではない。ただ好きでもない。だから未練はない。仕事に対して、こんな感覚に辿り着いた。才能ある人は、さらに会社を大きくしていけばいい。私は安全な場所から、何気なく変化する風景の一部として、意識に感じるノイズとしていたい。私は自分の社会的な可能性に気づいている。だから私は私。必要以上に働きたくない。意識はもっと揺れればよい。その都度私は深く自分へ潜行していくだろう。自分を簡単に信用できない。生まれてから自分をやってきて、そんな感慨がある。今は孤独が怖くない。孤独の時に現れる、本当の自分に不安がない。私はそれでも生きてきた。微々たる確信だけれど、自分の芯に、それを感じられる。人の視線は瞬時に変化する。私だってそう。その変化に私の芯は、私を精神的に守ってくれるだろう。大丈夫。今は。予定通りに生きられている人が羨ましい。私は瞬間を生き抜くことで、精一杯。こんな生き方しか、私には出来ない。自分を好きになるなんて、簡単なことではなかった。みんな、自分の存在に不安なのかもね。不必要な言葉を発する人が、最近多いような気がする。孤独から出てくるであろう言葉が、最近嫌い。みんな、不安を感じて生きている。その不安を誤魔化そうとする馬鹿騒ぎから、もう私は遠ざかりたい。祖母は孤独な時間を楽しんでいる。孤独だけれど、寂しそうではまったくない。 「おしゃれを楽しみなさい」  という祖母の言葉が、何となく理解出来たような気がする。祖母の選んでくれた洋服で、私に向けられる視線が変化したような気がする。それを私は「楽しい」と感じる。 「より自分を素敵に見せる着こなしがおしゃれ」  と祖母は言う。でも私にはよく分からない。ただ私に向けられる視線が変化したことは、事実。きっと祖母の言葉は正しいのだろう。祖母の見えている世界と、私の見えている世界は、もしかしたら違うのかも知れない。同じ空間を生きているのに、不思議。私は祖母を知ってはいるけれど、どれ程の祖母を、私は知っているのだろう?私には捉えられない祖母が、祖母の中にはある。私はまだまだ未熟。自分が何を着れば、より素敵に見えるのかさえ、分からない。祖母は私を見抜き、私だったら選ばない洋服を選んでくれた。それによって私に向けられる視線が羨望になったような気がする。私はこの場所で、楽しもうと思う。世の中があって、私がある。でも私は私。私が壊れるなら、また会社を辞める。きっと何とかなるだろう。今は独身だし、子供はいない。裕福な祖母と、一緒に暮らしている。私だって一生懸命に生きている。それでも毎日不安。それでも私はここに生きているよ?今まで先のことを考え過ぎて、疲れた。だから、今を確実に生きよう。時代は絶えず変化している。いつでも裏切れる準備を、私は忘れない。人間関係の距離感は、一瞬で変化する。つまらない会社員生活のなかで現れる、諭旨解雇や懲戒解雇。何気なくウケる。きっとみんな孤独。その孤独を隠して、みんな生きているのだろう?私は私を生きなければならない。今日も一日が終わった。私の一日が終わったのだ。いつの間にか大人になって、いつの間にか許されないことで、周囲が固められている。そこに踏み込んだ大人は罰せられる。普通の人は、日々の生活に体力を使い果たしているから、その領域に幸運にも辿り着くことはない。そう考えると、私は幸せなのかも知れない?一日が、もう終わっている。今は普通に生きているけれど、向こう側に、いつ行ってしまうか分からない。そんな危うさを、自分の内側に感じている。今の生活が、幸せだって、頭では理解している。でも私のどこかが、納得していない。自分がなにやら怖い。私は何のために生きているのだろう?今の私は、自分の根本を見失っているような気がする。今は情報を、遮断しなければいけないのかも知れない。今の私は、人の気持ちに繋がろうとすることに、疲れているのかも知れない。純粋に、私は若くはない。もう人を、明確に選別してもいいよね?人を美しく見過ぎることに、疲れているのかも。現実は残酷だった。それが世の中に出た私の感慨。私は私を生きなければならない。視線が変化することで、見える世界も微妙に変化しているような気がする。信じるとか信じないとか、今はそんなことが滑稽に感じる。純粋な若さに、生臭さを感じる。私はもう、純粋に若くはない。狡猾に対する免疫が、組成されている。いつの間にかね。誰とでも仲良くしなくても、生きていける。それは新鮮な発見だった。今の私の日常は、会社と祖母の家の往復。不便なものは、淘汰されていけばよい。会社が私に合わなければ、別の会社に移動すればよい。ただそれだけのことではないか?誰とでも繋がろうとして、過去の私は疲れた。誰とでも繋がれない。私は私だった。もっとゆっくり生きられるのかも知れない?疲れた。猫のように、毎日ゆっくり眠りたい。一日終わると、ヘトヘトに疲れている。取り敢えずは毎日、質のいい食事を食べられている。不必要に触角を伸ばさないことで、うまく自分を守れている。目の前の仕事はきちんとやる。それにより報酬を得、日々の生活を満足させている。私は私を生きるしかない。他人の不幸に対する免疫が、最近さらに強くなったような気がする。運の無い人は、運の無い人と繋がっていく。モテない男は、モテない。それは仕方のないことだと、最近自然に呑みこめた。あるがまま、受け入れる。それには熟成が必要だった。人を美しく見過ぎることに、疲れた。誰とでも繋がれなくても、生きていける。それは、若い私にとってはすごく残酷なことではあった。でも、私は純粋に若くはない。それが救いでもあったのかも知れない。純粋に、若くはなくて良かったとも思える。なぜなら、あるがままを受け入れる、自分の内側で、許容範囲が広がったのかも知れないから。でも私自身は個人的には受け入れられないという、凝縮した価値観はある。私は子供を持つことが怖かった。別れたあの人との間に、子供を持たなくて良かったと、確信が持てる。きっと生物は、己の子孫を残したい。それは、私も理解が出来る。でも私はそれに、危険を感じた。私は私でいたい。でも、子供を産んだら、私が私でいられなくなる。そう察したから、私は自己防衛したのだ。男は信用できない。過去の恋愛から、私の感性はそう結論する。嘘の情報に、私は疲れた。現実と切り離された恋愛の情報に、今だからそれは嘘だと言える。私はもう、純粋に若くはない。だからテレビをあまり、必要としなくなったのかも知れない。テレビを見ると、自分がテレビの外側にいるような気がする。疎外感を感じる。私の感性が、居場所を求めている。痛みを感じる孤独はない。不自然に性欲が高まる寂しさもない。馬鹿騒ぎは、今の私には不必要。純粋に若い時だって、心の片隅では嫌いだった。今は言葉として、「嫌い」と言える。私はもう、弱くはない。同調することが社会人だと、勝手に錯覚していた。私は私の距離感で、生きていく。自分を見失うことで、自分が苦しくなっていた。会社があって、世の中があるわけではない。働くということを、私なりに考えなければいけない。栄枯盛衰。淘汰。裏切り。人間の感情は激しく揺れる。根本はきっと、とてもシンプルなのかも知れない?世の中は、いつの時代もきっと正しい。その世の中との接点である会社で、今の私は働いている。私の意識は、絶えず揺れている。進んではまた戻る。その繰り返しで、時間が過ぎていく。疑問だらけで確信が持てないまま、日々を私は歩いている。それでも正しく生きたいと、心の隅っこに、ある。それはまだ、消えてはいない。まだ、私は大丈夫。 「トラいちを、見回り隊長補佐から解任する」  と、祖母が言った。 「どうして?」 「寝てばかりいて、仕事しないから」 「見回り隊長補佐は、誰にするの?」 「Yと。あの子はよく見回りしてる」 「見回り隊長は愛夢だっけ?」 「そう。ミントが会長。チャプが取締役。ほかの子たちと私とあなたは平社員」 「そうなのね」  私は笑った。  何気なく過ぎていく時間。  不安は一時的に消える。孤独ではなく、寂しいという感覚でもない。祖母も私も猫たちも。いずれは死ぬ。これ以上に重要なことが、あるだろうか?見えているものと、見えていないもの。私は不必要に、見過ぎていたのかも知れない。もっと私はシンプルになりたい。静かな生活から、猫中心の生活へと飛びこんだ私。私の輪郭はここにあるけれど、内面とこの家の環境が、まだうまく融合できていない。祖母は今を楽しんでいる。その波長は私の精神に心地いい。暗い波長は今の私は拒絶したい。祖母は今でも自分を高めている。内容がない、ただ明るいだけの波長も嫌だ。今の私には、祖母のような内面の熟成がない。見える世界が少しずつ変化している。私はまだ、成長しているの?それでも今を生きるしかない。私は私の生き方しか出来ない。まだまだ生き足りない。不思議と今日は、そんなことを思う。 愛夢が窓際で外を見上げている。軒先に留まったスズメを見ているのだ。 「もうずっとあのままなの」  と、祖母。  見上げながら、愛夢が何やらしゃべっている。いつまでも、そんな彼を見ていられる。休みの日。こんな感じで流れていく時間もいいよね?不安を感じない時間が、増えたような気がする。時間が流れていくことに、今は焦燥を感じない。この家には猫がいる。ただそれだけのことではないか?ランダムに意識が流れる。突然、思考が止まって自分を強烈に感じることがある。不必要な言葉。近すぎる距離感。どうでもいい繋がり。そんな曖昧だったものが、私の意識を支配する。普通に生きているつもりでも、こんなにも深奥が痛い。どうか、正常を保っていられますように。何も感じない日があってもいいよね?猫だけを見ている日があってもいいよね?自分を壊したくない。私だって、必死で生きている。自分に対する悪意から、私は自分を守らなければいけない。日々、きっと私は緊張している。自分をすべて把握するなんて不可能。過去の自分から、おぼろげに自分を知っている。過去の自分が過ぎた。少しずつだけれど、私は私を生きている。昨日生きた自分と、今日生きている自分の感覚が、なんか違う。その違和感が、若い時は苦しかった。私は正しく生きているだろうか?周囲の雰囲気に、私はもっと敏感にならなければいけない。雰囲気が形成される怖さを、今の私は知っている。今まで何とか生きられた。いつでも裏切れる準備は整えている。孤独は怖くない。孤独を楽しめる、祖母のような人になりたい。私はここにいる。それが真実だ。自分の見えている世界で、何とか私は自分を保っているのに、不必要な情報で、私の内面がぐちゃぐちゃになる。どうやったら私はもっと、楽に生きられるのだろう?いい意味で、勘違いをして生きていきたい。その都度孤独になるけれど、これがきっと、生きるということの真実なのかも知れない。私の本質も他人の本質も、根本はきっと、ろくでもない。うまく私は他人を騙しているし、うまく騙されてもいるのだろう?好きとか嫌いとか。最近そんなことが、煩わしくなった。過去に対して未練はない。不必要なものは、壊れてしまえばいい。過去の価値観で、今を生きるのは、苦しすぎる。時代も私の頭の中も、少しずつしか変わらない。私だって、今を真剣に生きているよ?私はもっと、自分の頭で考えなければダメ。でも私は完全に自分を信用することが、未だに出来ない。私は正しく生きているだろうか?完璧な視線など、あるのだろうか?人の視線は瞬時に変化する。その怖さを知っているから、いつでも裏切れる準備を私はしているのだろう。私は私を生きるしかない。それが正しくなければ淘汰される。それだけのことなのかも知れない。普通に生きている私が、こんなにも揺れている。不安が絶えず溢れてくる。いつの間にか、私が臆病になっている。人の怖さが、日々更新されていく。私は私を生きるしかない。その距離感が難しいけれど、私は私を生きるしかないのだ。 「もう疲れた」  と、一人の部屋で言ってみる。  私はそんなに強くない。一日終わるとお酒を飲んで、寝る頃にはフラフラしている。祖母が傍にいてくれる。そんな、何気ない時間が過ぎていく。これで私は、いいような気がしている。いけない?いけないなら、私は何をすればいいの?目の前の仕事はきちんとやっている。それで一日が終わる。それで私はお酒を飲んでいる。「仕事は何をやってるの?」と言われれば、私は会社名を言うことで、何とかプライドが保てている。きっと私は会社のおかげで、自分の輪郭を保てているのだろう。個としての私の価値なんて、それ程ないと思う。だから人は、組織に対して中毒になっていくのだろう。不潔な不細工な男も、地位とかねを得れば相手にされる。私は会社のすべてが見えてはいない。私は私のポジションで見える世界がすべてだ。どうやら私の会社員としての限界は、ここまでのような気がする。 「もういい」  のだ。私の深淵が、そう言っている。私は精神と肉体の健康が何より大事。そう私自身が悟ったのだ。 「もう疲れた」  祖母に叱られるから、だから祖母にはこの言葉は言わない。でも、「疲れた」。  仕方なく働く。働くことの意味に、私にはこの言葉で十分だ。私は有名な経営者ではない。感化されて、高尚に生きたいと思ったけれど、私には合わなかった。人間の不平等に、今の私は冷静に愕然と出来る。私は私の生き方しか出来ない。きっと、淡々と生きるしかない。結局。私は私を生きるしかない。人生がうまくいっている人からは、今は遠ざかりたい。素直にそう思う。私は今、どこを歩いているのだろう?私はどこに向かって歩いているのだろう?一日終わって食事が出来て、もうこれでいいような気がする。私のこの思考は間違っているの?寒いのも暑いのもイヤ。毎日毎日眠い。早く時間が過ぎればいいのに。それが今の私の毎日だ。猫たちが羨ましい。仕事から帰ってくると、暖房の効いた部屋で、猫用ソファーで気持ち良さそうに眠っている。かわいいとは思うけれど、疲れている私は複雑。私は人として生きていることを実感する。でも暖かい。温かくて暖かい。だから、もうこれでいいような気がする。好きなことをやって自分の限界を知って、今の私は心地のいい場所を求めているのかも知れない。もう疲れた。自分に対しても、他人に対しても、疲れた。祖母が作ってくれる、質の良い食事で、私は健康になった。私はもっと、自分を大切にしようと思う。これから口に入れるものは、よく吟味しようと思う。合わない人とは合わない。これはもう仕方がないと、私は結論する。みんな仲良くということに、疲れた。私は私を生きなければならない。もう疲れたと、諦めてしまえたなら、どんなに楽だろう。でも今の私は諦めてしまえている。だから楽になった。出来ないものは出来なかった。健康が何より大事だと、今の私は悟っている。過去に刷り込まれた価値観と、過去の私は闘っていたような気がする。結論として。闘うことに疲れた。私は私自身を輝かせたい。この結論は、自己中だろうか?曖昧なストレスを、アルコールで誤魔化すことに、今の私は疲れているのかも知れない。私は私を生きたい。強烈に、そんな欲求が溢れてくる。過去に対する強烈な恨みが、私にはある。あの時、私には知識が無かったし、勇気も無かった。友達とか友情とか。今となっては滑稽に思える。私はどこか、冷めていた。その冷めた感覚を、意識的に感じないようにしていた。時間は過ぎた。過ぎてみれば、その感覚が正しかったと思える。今の私は弱くない。密かな読書により、知識も蓄積されている。自分を俯瞰で見る視線も、より高度化されている。飲み会?必要ないだろう?弱虫の集まりに、私の感覚は辟易している。自分の思い通りにいかない。私の内側に蓄積されている情報は、正しい情報だろうか?自分を信じるしかないけれど、その自分さえ、疑わしい。こんな感覚が、私を不安にしているのだろう。何が正しくて正しくないのか?私はその都度、ベストな答えを出してきたつもり。複雑に思考が揺れて。それが私を考える、材料になった。そして少しずつ、私は自分に気づいていった。過去に何度も戻り、材料を取り出して、逡巡を繰り返す。そうやって私の輪郭は、形成されてきたのだろう?今の私は、誰かの物まねで生きているわけではない。しっかり生きねば。焦燥。嫉妬。最近、これらに自分の輪郭が揺れなくなった。私は私を守らなければならない。適度な距離感で、それでも私は生きている。不意に現れる、過去の弱虫だった私。今の私は、あの時の私ではない。気づいたら、私の人生は始まっていて、それが今となっては不思議な感覚だ。自分では、どうにもならないことがあった。その現実と、どうにかしたいという意思の間で、今でも私は苦しんでいるし、苦しんできた。もどかしい。そのもどかしさで、日々苦しい。あっという間に過ぎた時間。これからも、あっという間に過ぎていくのだろう。意識の外側で流れる時間に、今の私は何気なく注意をしている。私に対して害がないか?私の触角は鋭敏になる。人の視線は瞬時に変化する。いつでも攻撃出来る準備はしてある。大丈夫。まだ私は大丈夫。何もしていない、自分と向き合っている時間が、最近好き。理解はしていたけれど、純粋に私は若くはないのだろう。何かしていないと焦燥感で苦しかった、私が純粋に若かった日々。貪るように読んだ本達が、今頃になって私を救っている。私は自分に戻ってきた。この戻っている感覚が心地よい。これから私はどこに向かって生きていくのだろう?でも、純粋に若かったあの日々のような不安ではない。なるようにしかならない。私は私以下にはならないし、私以上を望まない。それでいいではないか?未来をあるがままに受け入れる準備は整っている。 「ミントが元気ないの」  と祖母。医者に連れていくと、胃腸が弱っているらしい。十一キロあった体重が、八キロにまで落ちてしまった。体が凝っているとのことで、針治療をしてもらった。生まれてから十一年目。人間で言ったら六〇歳。早い。猫も、時間が経過している。人間と比べると、ものすごいスピードで。老いたその先にある死を、考えたくはないけれど、意識はしなければいけないのかも知れない。生まれたばかりのミントが、今でも私の記憶にある。そこからもう十一年。生まれたら、生きて、死ぬ。当たり前のことだけれど、それはすごいという実感がある。寝ていることが多くなったミント。食べて、遊んで日向ぼっこして、愛されて。家の外に猫が来ると、威嚇もし、マーキングもする。人間の本質と、何ら変わらない。私は働くことで、お金を得ている。そこが猫たちとは違う。癒されてはいるけどね。 「食べて、遊んで、眠る。それが猫の仕事」と祖母は言う。私は今度生まれてくる時は、祖母のような人の猫として生まれたい。知能は人間の方が上。でも祖母の猫たちの生活レベルは、人間より上。質の良い、十分な食事と、十分な医療。猫たちは、人間をどう見ているのだろう?それを知る能力が欲しかった。一緒にいるのにもどかしい。くしゃみをすると、チャプが怒る。「チャプちゃんは、くしゃみが嫌いなのよ」と、祖母が言う。チャプは神経質な子。好きな食べ物だって、それぞれ違う。家の中を流れる時間が忙しない。清潔な環境を保ってあげなければいけないし。ある意味、私にとっての子育てなのかも知れない。私には、何かが欠落している。それを何気なく、私は気づいている。どこで私は躓いたのだろう?中学生の時に、両親が離婚した。その影響で、私は離婚したのだろうか?私は本能的に子供を望まなかった。この人とは離婚する。そんな予感が頭の片隅にはあった。なぜ私は結婚したのだろう?今となってはその根源が曖昧だ。過ぎたことなのに、答えが出ない。だからこんなに未だに苦しんでいるのだろうか?私はある時期から進んでいない。進まないまま、私はこのまま過ぎていくのだろうか?男に対する理想は消えている。私はもう、そんなに弱くない。はっきりとした答えが出ないまま、それでも私は自分を続けるしかなかった。ちょっと進んでは、ほんのちょっとだけ、自分に気づく。私は自分なのに、どうして自分のことを理解するのに、こんなにも時間が掛かるのだろう?自分を見誤り、だから私は離婚したの?自分を知るスキルを、私は高めなければならない。みんな一律に生きることは出来ない。学生の時、みんなと一緒にいても、私はどこか孤独で憂鬱だった。そんな自分が今になって、終わろうとしている。内面の時間は遅々としてしか進まない。私は今を生きているのに、未だに過去に捉われている。仕事をしている時はいい。そんな自分を忘れられるから。でもその仕事も、厭きてしまっている。毎日が、何気なく不安定。気持ち的にね。情報を取り過ぎても害になる。もっと、無関心でいいのかも知れない。自分を安定させるのって、案外難しい。体と精神の健康。祖母と猫たちのおかげでその両方が、前に比べて安定している。私は私を生きなければならない。私は今、病んでいるだろうか?それは過ぎてみなければ、自分では分からないのだろう。自分の過去を見つめるには勇気がいる。静かな時間も必要。その時間が、今なのかも知れない。未来ばかり見ていた私は、いつの頃からか、自分を見失っていた可能性がある。きっと今の私は、現実が見えていない。私はもっと、過去の自分と向き合わなければならない。現実がもっと、クリアに見えてくる筈。時代は混迷している?そんな言葉が私の内側にある。時代はいつも混迷しているでしょ?みんな、一所懸命に働いている。何か……滑稽。私は大人だから、そんなことは言えない。絶対にね。私はまだ、完全に大人に成り切れていないのかも。大人って、なってみると、そんなに悪くない。本音と建て前。それが、昔より上手になっている。病気するほど働きたくない。これが私の本音。会社なんてどうでもよい。これが私の本音。別に。すべての会社が潰れるわけではないでしょ。私は自分の生活を守りたい。会社という枠は何でもよいと、私は考える。別に経営者でもあるまいし。生活を維持させる為に、私は働いているのだ。こんな感じで私は生きている。自分以上のことは出来ない。体の免疫が変調するから、気づく。ブツブツとか。自分以下の人と付き合うことは、主人側として優越感を持てるから楽だけれど、もう止めた。私は個として独立していたい。自分に合った距離感。自分に合った思想。それを絶えず自分自身に突きつけていないと、不安。目の前にあるのに見えないものに、しかも錯綜しているものに。人の視線は波長が合ってしまえば何倍にも瞬時に増幅する。会社の中は、きっと静かな殺し合い。殺し合っているうちに、きっと世の中とズレていくのだろう。私は今、どこに立っている?これを絶えず、意識しなければならない。私を動かしている思想は、世の中に対してうまく適応できているだろうか?こんなにも、自分を律することは難しい。未熟。ここまで辿り着いたという感慨はあるけれど、ここから見える景色に対して、新たな不安が生まれている。そんな自分に対して未熟という言葉が、深奥からポツンと溢れてきた。きっと私は震えている。それを巧妙に隠さなければならない。私の変化に、私の体が震えている。頭の中も、変化させなければ。視線が変化すれば、動く感情も変化する。きっと思考も高度化されていくだろう。誰とでも仲良くはなれない。記憶から、合わなかった人が不意に現れても、やっぱり心拍数が上がる。目の前にいるわけではないけどね。私は自分を守らなければならない。今でも激しく感情が動く自分が嫌。この感情の揺れと、今でも内密に闘っている自分が嫌になる。記憶の変化で、溢れてくる言葉の質も変わる。一日の、自分の目の変化を記録したら、面白いかも知れない。未だに自分を取り扱うことに、苦労している。でも今の自分は何気なく好き。純粋に若かった時、私は自分を好きになろうと努力した。思春期の頃の葛藤。今は都合よく忘れている。大丈夫。ゆっくりだけれど私は進んでいる。毎日、自分自身に苦しい。外の世界は何だか騒がしい。外側の変化に対して、私はいい意味で鈍感になっているのかも知れない。私は私の人生に責任を持たなければいけない。過ぎた日と、目の前を過ぎていく時間。私の寿命は確実に減っている。けれど精神の広がりを感じるのは気のせい?安心感が欲しかった。今だから、言葉に出来る。過去の私は安心感が欲しかった。そう思える今の私は、安心しているのかも知れない。自分を意識で無理やりコントロールすることは、もうやめようと思う。自分の変化に気づいて、その都度適切な処置をしていこうと思う。あるがままの自分を受け入れるしかないのだから。きっと私は難しい時代を生きている。けれど、私の本質は何も変わらない。私を取り巻く環境が、突然何百年も昔になっても、私は私として、生きていく自信が今はある。起きて働いて、命の危険があれば素直に逃げる。その間にきっと恋もするだろう。男の馬鹿な権力争いを、冷めた目で、静かに俯瞰することだろう。私は一人でも大丈夫だと思っていたけれど、今は違うような気がしている。その変化を認めることに、私が何だか怖がっているような気が。価値観が、私が気づかないうちに変化している。鏡の見方も変化した。シミ。老いということに、私が気にし始めている。過去の私の皮膚は、もっと綺麗だったような記憶がある。その記憶も、アップデートしなければならない。それは私にとって、軽い痛みだった。ずっと綺麗なまま、い続けることは出来ない。そんなことは知っている。その現実に自分が実際に向き合うと、すぐに受け入れることが出来ない。時間の経過はある意味残酷。自分のすべてを救ってはくれない。記憶を整理するのも、莫大なエネルギーを必要とする。容姿の変化に、私は無防備だった。迂闊だった。容姿に対する認識も、アップデートしなければならない。毎日が忙しなく過ぎていく。そうやって自分を見失って、おばさんになっていくのだろう。私は嫌。若作りではない祖母のような美しさが、欲しい。きっとそれは、自分を深く見つめることでしか、手に入らないものだということに、私は気づいている。中学生の時、両親が離婚したけれど、私は生きたいように生きてきた。今は音信不通だけれど母には感謝している。あっという間。この言葉どおり、時間は過ぎた。その時間内に起きた出来事を、今はある程度冷静に俯瞰で見られている。今の私が、何となく見えてきたような気がする。私にとっての真実の未来が、もうすぐやってくると信じたい。自分をある程度知った。今度はそれを、受け入れていかなければならない。内面で、これからも地味な作業が続いていくのだろう。記憶。思考。私は内向的な人間だから。祖母と猫たちとの距離感も適正だから。 「外に、サビ猫の子猫が来てるでしょ?」  と、祖母。 「あの子だけが、戻ってきたのね」  と感慨深そうに祖母。  少し前に、母猫が子猫を数匹引き連れて、家の庭に現れては消えていた。私は祖母に注意をしていた。 「もう七人もいるんだから」と。 「お腹がすいてるだろうに」  と祖母は言う。その言葉に、繊細に胸が苦しくなったけれど。その中のサビ猫が、戻ってきたのだ。家の中にいる七人の猫たちが、ざわざわする。祖母はガーデニングが趣味で、しゃがんでいると、近くまで寄って来る。ガラス越しに、家の中の子たちとコミュニケーションしているのが、私の目から見ても分かる。 「大変じゃない?」  と私。 「もう七人もいるから大丈夫」  と祖母。  一緒に住むことに決めたけれど、まったく捕まらない。私は虫取り網を買ってきたけれど、駄目だった。今まで保護した子は触れさせたけれど、この子は警戒心がとても強かった。 「どこかで、怖い目にあったのかしら」  と祖母は言う。 「他の子たちはどうしたのかしら」  私は変に、想像を膨らませないことにする。  どうか、幸せな家で保護されていますように。 「早く保護して、医者に連れていかないと」  と祖母。 「蚊に刺されているだろうから、早くワクチンを打ってあげないと」 「うん」  私も焦る。  でも捕まらない。 「家には入りたそうなのよねぇ」  だから祖母が数センチだけ窓を開けて、距離を取って様子を見ていた。入ってきた。私は静かに外に出る。心拍数が上がる。窓を閉める。成功!窓を閉められたブラウニィはびっくりして、部屋の隅に走っていったらしい。その様子を祖母から聞いた。ブラウニィという名前は祖母が前から決めていたらしい。チョコレートのお菓子のブラウニーに色が似ているからという、祖母らしい感性の理由からだった。部屋に戻るとブラウニィを家の猫たちが取り囲んでいる。ミントが重い体を揺らしながら、ゆっくりと近づいてくる。背中を丸めて蹲っているブラウニィ。誰も、攻撃的な態度はしていない。 「大丈夫」  と祖母。  そのまま病院に連れて行った。祖母も私も男の子だと思っていたけれど、女の子だった。顔の右左半分ずつ、模様が違う。私は不思議な子だと思った。絵本を開いたら、間違ってそのまま出てきてしまったような。それから数日後、不思議の国のアリスに出てくる、マッドハッターが被っている帽子をモチーフにしたペンダントトップが届いた。祖母が事前に注文していたらしい。首回りを測って赤いチョーカーを注文し、ペンダントトップと組み合わせたら、ブラウニィによく似合った。 「これで、うちの子になった」  と祖母はにっこり。  警戒心の強い子で、未だに祖母と私には懐かない。それでも。ほかの子たちとはうまくいっている。特に愛夢に甘えている。甘えることが得意な愛夢は、甘えられることに慣れていない。心境の変化で疲れるらしく、最近はぐったり眠る。新しい子を迎えることで、猫たちも今までと違った感情の動きに戸惑っている。人間と、何も変わらない。猫たちは八人になったけれど、個性はみな違う。それぞれかわいい。 「そろそろかしら」  と祖母。 「うん」  ブラウニィが夜、うるさい。発情しているようだ。避妊手術を受けさせたら、止まった。ブラウニィ専用のキャリーバッグも買った。祖母と私は何気なく忙しい。目の前にはやるべきことがある。逡巡している自分に気持ち悪さを感じながら、それでもやらなければいけないことがある。心と体が同期していない状態で、何気なく日々は過ぎていく。今の私はこれでいいの?何気なく、自身に問う。 「あなたは、あなたでいい」  と不意に祖母が言った。その言葉の前後に、何の脈絡も無かった。猫たちは、気持ちよさそうに寝ている。静かな時間だった。祖母のその言葉は、私を癒した。自分の内側から外側に、出られたような気がした。 「もう疲れたよ」  と私は不意に言ってしまった。  自分でも、驚いた。自分の本心が、私自身の目の前に、突然現れて。祖母は私を見抜いていたのかも知れない。 「あなたは自分を、ぎゅうぎゅうに詰めこみすぎる」  こんなことは、誰も言ってはくれない。今まで言われたこともなかった。自分の内側から溢れてくるものを言葉にして、それを自分に認識させる。その作業に、今の私は疲れているのかも知れない。そんな私を祖母は、静かに見ていてくれていた。それが嬉しかった。馬鹿な私から、何滴か涙が落ちた。 「私はそんなに強くない」 「もっと、ゆっくり生きなさい」 「うん」 「この子たちを見なさい」  と祖母。 「歳をとるスピードは速いけれど、ゆっくり生きている」 「うん」 「あなたは生きるスピードが速すぎる。考え過ぎる」 「そうだね」 「あなたは普通の子。特別な才能なんて何もないの。もがいたって仕方がない」 「ん?」 「難しいことは、才能ある人たちに任せればいいの。楽しむことを考えなさい」 「私を馬鹿にしてるの?」  涙を流したことを、何気なく後悔している私。 「あなたを見ていると、イライラするのよ。今まで好きなように生きてきて、結局何ものにも成れなかったでしょう?もう自分が普通であることを認めなさい」 「私をそんな風に見てたんだ?」 「そう」  と祖母は素っ気なく言った。  やっと安心できる場所が見つかった。私はそう思っていた。私は祖母を、人格ある一人の人として、見ていなかったのかも知れない。何かが内側で、変わろうとしている。ここは祖母の家であって、私の家ではない。私は人として、生きなければならない。精神的な依存を、私は無意識に祖母に求めていた。それを祖母が、嫌ったのだろう。  蒼い部屋の記憶。あの時の風景が、また目の前に現れる。私はあそこから、抜け出さなければならない。私はまだ、あの部屋にいる。私は母に、ただ傍にいて欲しかった。まだ私は母を求めている?私はそれを、祖母に求めたのかも知れない。疲れている場合ではない。私は変わらなければいけない。今、私はどこに立っているだろう?安心できる場所を求めて彷徨う時間は、きっともう終わったのだ。現実は、所詮現実だった。依存心の強い私に、祖母は嫌な気持ちがしたのだろう。 「私、この家を出たほうがいい?」 「猫八人、どうするの?」 「え?」 「私一人では、大変でしょう?」 「それはそうだけど」 「あなたは、あなたらしく生きなさい」 「私はどうすればいいの?」 「それはあなたの判断でしょう?」  私は祖母の言葉で、余計に自分が分からなくなった。 「私にいて欲しいの?」 「あなたはどうしたいの?」 「いていいなら、私はいたいけど」 「だったら、いればいいじゃない」 「いいの?」  私は疲れている。精神的にも肉体的にもヤバかった。祖母の家に居ることで、その両方が回復していた。私は何の為に、生まれてきたのだろう?私の本当の居場所はここではない。そんなことは理解している。私はまだ、過去に居るのかも知れない。だからこんなにも、現在が揺れているのだろう。だから未来が明確に見えなくて、こんなにも不安なのだろう。生きたいように生きてきた。それは過去に対するコンプレックスで、その負のエネルギーで、きっと頑張れたのだ。 「もう疲れた」  けれど気づいたら、  私はもう、こんなにも強くなっている。  私は今、どこに立っているのだろう?  祖母は猫の世話で忙しない。私はそのサポートをしなければならない。今はこれでいいと考える。今は何もしたくはないけれど、祖母の家を出ることは、今の私には、決断が出来なかった。これでいい?私は何気なく自身に問う。
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