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「もう三日ぐらい聞いてる、もう切り上げよう」
「ほら書いたら楽になる! 一回だけ! 一回だけだから!」
「それヤバい薬みたいやで」
「気合入れてけー!」
向日葵はここ数ヵ月で一番笑った。楽しい。親兄弟や祖母が楽しんでくれているのもいいし、椿もなんだかんだ言って嫌ではないからこの場でボールペンを握り締めているのである。
父と兄はとっとと書かせたいようだが、向日葵は椿が踏み切るまでゆっくり見守るつもりでいた。そうは言っても二十二年と七ヵ月使ってきた九条姓と別れを告げるのは勇気がいるだろう。ましてあの母親がどう出るかわからない。だがみんなの言うとおり結婚は両性の合意のみにもとづくものなので椿に書かせてしまえばこっちのものなのである。
「あかん……これ母さんが知ったらどうなってしまうんやろ……」
「婚姻届を出してしまえばひまが離婚届を書かない限りはどうにもならないので」
「うわーっ」
震える手で自分の名前を書き込んでいく。さようなら九条椿さん、こんにちは池谷椿さん。
「よし、がんばったな」
涙目の椿の頭を父が大きな手で撫でた。
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