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彼女と手を握ったのは、多分この時が最初で最後だ。心臓に自分を支配されたような、凄く速くて大きい鼓動音がして、まるでそこだけが自分じゃないような、小さなモンスターが勝手に暴れ出したような感覚に襲われた。でもそれが全然嫌じゃない。
屋根のある停留所へ辿り着いた時には、お互いの体が結構濡れていて、手の平で水気を払っていたら、喜多村が持っていたタオルハンカチで俺の髪を拭いてくれた。その時、思っていたよりも彼女の顔が近くにあって、唇が凄く艶やかで甘そうなサクランボのように見えた。
(キスしたい)
強くそう思った。そして無意識に顔を近づけた時、待っていたバスが到着するプシュウという音で、目が覚めた。
『喜多村は俺でいいのか?』
蓋をして考えないようにしていた思考が、急速に脳を支配した。今バスが来なかったら、もしこのまま喜多村にキスをしていたら、俺はもう二度と彼女の前で胸を張っていられない、そんな気がした。
梅原が貰うはずだった手紙を俺の手でもみ消し、自分の勝手な欲望で喜多村を騙して付き合わせている。彼女はクラスの皆に梅原への想いがバレるのが嫌で、渋々俺に付き合っていただけなのに。
今ここでキスをしたところで、嬉しいのは俺だけだ。そんなキスに何の意味がある? そこまで考えたところで、やっと俺は自分の本当の気持ちに気づいた。
(俺は、喜多村のことが好きだ)
俺だけの知る喜多村の可愛さを独り占めしたい。梅原に渡したくない。そんな気持ちで悪魔に魂を売ったと思っていたが、これが俺の初恋だった。
(俺は、喜多村の心が欲しい)
彼女の心が自分に向いていなければ、何の意味もないことに気づいてしまった。そう自覚すればするほど、自分のしたことは何て卑怯で愚かなことだったのかと、悔しくて情けない気持ちになる。
喜多村に本当のことを話せば、一瞬で俺を嫌いになるだろう。そう思うと謝る勇気が湧かなくて、それっきり彼女をデートへ誘うことは出来なかった。そして俺達は別々の高校へと進学し、それっきりとなる。
いつの間にか自宅マンションへ辿り着き、部屋の扉を開けていた。出勤時のままのガランとした暗い部屋が、無言で俺を歓迎する。
電気をつけ、リビングのソファへ荷物とジャケットを放ると、寝室のクローゼットへ向かった。隅に片付けていた銀色のスーツケースを取り出し、数日分の服や下着を黙々と詰め込む。後で川井にも連絡しなければならない。
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