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奴隷として今の主人に仕えてから、ずっと戦ってきた。
殺すことも、戦うことも、好きではなかった。
ただ――殺さなければ、殺される。
そんな怯えが、ルキウスを突き動かしていた。
獅子と戦わされることも、自分の二倍も大きい大男と戦わされたこともあった。
ルキウスは、今まで一度も負けなかった。
死にたくなかったからだ。
コロッセウムに集まる観客はルキウスの苦悩など知らず、ルキウスに血に飢えた叫びを浴びせた。
いよいよ明日の試合で勝てば、剣闘士から解放される。
明日からは、市民になれる。
ルキウスはいつもの宿舎ではなく、主人の邸宅に招かれ、豪奢な客室に通された。
「……勝てるかな」
夜、湯浴みをしたあと、ベッドに寝転ぶ。
早く明日が来てほしいような、来てほしくないような、微妙な気分だった。
明日は、ルキウスが解放されるか、死体になるか――重要な試合だ。
相手も、強い戦士があてがわれるだろう。熊か獅子かもしれない。
いきなり誰かが入ってきて、ルキウスはがばりと起き上がる。
「誰だ?」
「……私、呼ばれてきたの。娼婦よ」
すっぽりと黒い外套に身を包んでフードで顔を隠していた彼女は、部屋に入って外套を脱いだ。
きらびやかな長い金髪は三つ編みになって垂れており、顔は上品で美々しい。
……が、いかんせん体が貧相だった。ひどく痩せているし、女らしい凹凸に欠けている。
「子供は抱かない。帰ってくれ」
「もう、お代はもらっちゃったの。あなた、明日で剣闘士から解放されるのでしょう? 私は、あなたの主人からの餞別よ」
「あんた、いくつだ?」
ぶしつけに問うと、彼女は少し考えたあとに「十七」と答えた。おそらく、嘘だ。
(せいぜい、十五ぐらいだな)
十五でも官能的な女はいるが、彼女はまだ子供の体つきをしていた。
「名前は、レイリア。よろしくね、ルキウス」
彼女はベッドに座って、ルキウスの顎に手をかける。
「あなた、きれいな青い目ね」
「君こそ」
「ふふ。髪の色も近いわね。あなたの金髪は、少しくすんでいるけど。同郷かもしれないわね。あなた、出身は?」
「わからない。生まれたときから、奴隷だったから。母が奴隷だったんだ」
ルキウスの母の主人は、ルキウスが七つのときに奴隷市に出した。
それほど悲しくはなかった。母はもう死んでいたし、父親は――おそらく母親の主人だったのだろう。別に愛着もなかったし、向こうも愛情を見せなかった。
「私の出身は、ガリア」
「ふうん」
地名を聞いても、ピンと来なかった。
「あなたのお母さんも、ガリア出身かもしれないわよ」
レイリアがルキウスに唇を近づけたところで、ルキウスは身を引いた。
「もう。観念して、私を抱きなさいよ。私も、初めてのお客があなたで結構嬉しいんだから。すごいひげもじゃ親父だったらどうしよう、とか思ってたのよ」
レイリアの言い分に、ルキウスは肩をすくめた。
「さっきも言ったように、子供は抱かないんだ。俺は明日、試合に勝ったら報奨金をもらえる。それで、君をもらい受けるよ。それで、君が成長するまで待つ」
「……正気?」
「いたって正気だ。俺が勝つことが前提になるけどな」
「変な人ね、あなた」
「そうか? それより、レイリア。俺には行くところがないんだ。君の故郷に連れていってくれ」
頼むと、レイリアは暗い顔になった。
「私の故郷は、ローマとの戦争で負けたの。私は戦争捕虜として、売られたのよ。本当は私、一族のお姫様だったんだから」
姫。にわかには信じがたい話だった。だが、気位の高そうなところを見るに、本当かもしれない。
「そうか――。でも、ローマ領になった故郷に帰っても、別にいいだろう?」
「私は別に、いいけど……」
「もし、君の故郷に住めないのなら、別のところに行ってもいいし」
「わかったわ。でも、どうして私の故郷になんて行きたいの?」
「俺には故郷がないからさ。母がどこで生まれたかも知らない。かといって、このままローマで暮らす気も起きない。目的地が欲しいんだ。俺は、ずっと死にたくない死にたくないと思って、生き抜いてきた。……それで、いざ次の戦いで勝てば解放されるとわかって、俺には行きたい場所もやりたいこともないことに気づいた」
ルキウスは天井を見つめ、続けた。
「だから、何か目標が欲しいんだ」
「ふうん。やっぱり、変な人だわ。でも、いいわ。歴戦の剣闘士だって聞いてたから、どんな筋骨隆々な男だろうと思っていたのよ」
レイリアは、ルキウスの頬に手を滑らせる。
「俺は速さで勝負するからね」
ルキウスは剣闘士のなかでも細身だった。
自分ではよくわからなかったが、顔も整っていると主人に言われた。
見目がよく戦いに強いルキウスの試合は、人気があるのだという。
「なるほどね。……じゃあ、ルキウス。今日は私、あなたに子守歌を歌ってあげるわ。明日、勇敢に戦うために、よく眠れるように」
レイリアはベッドの上に膝立ちになって、ルキウスの頭を抱きしめた。
「あなたは、いくつなの?」
「俺は十八だよ」
「あら、私と四歳ちが――な、何でもないわ!」
やはり、十七歳というのは嘘だったらしい。
ルキウスは、レイリアの腕の中で笑った。笑うのは、久しぶりだった。
その夜、ルキウスはレイリアと同じベッドで眠った。何もしなかったが。
兜をかぶり、軽い鎧に身を包んだルキウスがコロッセウムに姿を現す。
歓声がとどろく。地面がうなるようだった。
試合相手も、ちょうど入場してきたところだった。
随分と大きな男で、鎖鎌を持っている。
ふと、観客席を見る。
レイリアが、不安そうに座っていた。彼女にとっても、これは運命の試合だ。ルキウスが勝てば、レイリアはルキウスと共に自由になれる。負ければ、レイリアは娼婦を続けるしかない。
ルキウスは双剣を意識し、両手に力を入れる。
合図と共に、試合が始まった。
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