暗闇の一族

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 横山宗一は悩みを抱えていた。宗一が大家を務めるアパートの住人の、田中という男についてだ。宗一自身もそのアパートの一室に住んでいるのだが、奇妙なことに田中の姿は一度も見かけたことがなかった。  書類によると、田中は30歳の会社員で、独身のはずだった。ところが、田中の隣人が「何人もの話し声がする」と苦情を言うのだ。友人を呼んで宴会でもしているのだろう──。宗一はそう考えながら注意の手紙を書いて、玄関ドアの郵便受けに挟んでおいた。その後すぐ声は止んだのだが、何ヶ月か経つと再び話し声が聞こえてきた。そんなことを繰り返して、ついに隣人はアパートを去ってしまった。  あるとき、宗一が手配した火災報知器の点検業者が田中の部屋を訪問したところ、立ち入りを拒否されることがあった。それを聞いた宗一は、田中に電話をかけた。  電話口で、田中は妙に甲高い声で答えた。 「ああ、大家さん……。すみません、部屋が散らかっていまして、どうしても入れたくなかったんです」 「事前に告知はしていたでしょう」 「そうでしたっけ……。すみません、見落としていたみたいです」 「また別の日に手配しますので、都合のよい日時を教えてもらえませんか」 「そう、ですねえ……。いま、スケジュールがわからないので、また後日、こちらから連絡させてもらえないでしょうか。本当にすみません」  ところが、待てども待てども田中からの連絡はない。しびれを切らして宗一が電話をしても、平謝りしながら「忘れてました」と言う。結局、点検のことはうやむやになってしまった。  問題はそれだけではない。虫のこともそうだった。  アパートは静かな住宅街の一角にあって、付近には雑木林などもないのだが、クモやゴキブリやムカデがよく現れるのだ。ある住人は、田中が入居してきたのと同じ時期から現れるようになったと言い、また別の住人は、田中の部屋の玄関ドアの隙間から何匹もゴキブリが出てくるのを見たと言った。  ──もしかしたら、田中の部屋はゴミの山になっていて、中で虫が繁殖しているのではないか。宗一はそう疑っていた。  そんなことが続いて、宗一はこの迷惑な住人をなんとか追い出せないかと考えるようになった。しかし、経験が浅いこともあって、どうすればよいのか分からない。もともと、このアパートの大家は宗一の父親だったのだが、交通事故で急逝してしまったため、ほとんど仕事を教わることなく宗一が引き継いだのだ。田中も父親の代からの住人だった。  そんな折、田中の下の部屋の住人から、「天井から水が漏れてきている」という連絡があった。──そうだ、この機会に田中の部屋を探って、追い出すための口実を見つけてやろう。そう考えて、宗一は田中を訪問することにした。時刻は夜7時をまわった頃だった。  3度目の呼び鈴で、ようやく田中の声がドア越しに聞こえた。 「どちら様ですか」  ドアくらい開ければいいのに、と思いながら、宗一は向こうに聞こえるように声を張り上げた。 「大家の横山です。下の階から水が漏れているという連絡がありまして。すみませんが、中を確認させてもらえないでしょうか」 「……いま、うちでは水を使っていませんので、何かの間違いじゃないですか」 「水を使ってなくても、給水管の劣化などで漏れることがあるんです。申し訳ありませんが、緊急のことなので、見せてもらえないでしょうか」  ドアの向こうはしばらく沈黙していたが、やがて返事があった。 「準備しますので、少し待っててください」  ──準備?部屋があまりにも散らかっていて、片付ける時間が欲しいのだろうか。訝しみながらも、宗一は言われた通りに待つことにした。  5分ほど経って、玄関のドアがゆっくりと開いた。ドアの隙間から田中の顔を見て、宗一はぎょっとした。田中は、大きなサングラスとマスクを身につけて、顔の大部分を覆い隠していたのだ。 「どうぞ」  田中の背後の部屋の中はなぜか真っ暗だった。田中は内側からドアを支えて、人がギリギリ通れるだけの隙間を作って、宗一を中に入れた。  宗一の後ろでドアが閉まる。部屋は完全な暗闇になった。 「……電気を付けてもらっても?」 「ああ、そうですね……。すみません」  明かりが付き、部屋を見渡した宗一は、思わず「ヒッ」と声を上げてしまった。  部屋の中には、宗一と田中以外にも3人の人間がいたのだ。その全員がこちらに背を向けて、まるで顔を見られまいとするかのように、両手で頭や顔を覆いながらうずくまっていた。髪や体格からして、どうやら、少年が一人、女性が一人、初老の男性が一人のようだった。 「友人たちです。たまたま遊びに来ていて……」  田中は慌てた様子で言った。他の3人は、じっと顔を隠したまま一言も発しない。  このアパートは全ての部屋が1DKの作りになっていて、玄関を入ると6畳のダイニングキッチン、その奥に6畳のベッドルームがある。いま宗一が目にしているのはダイニングキッチンの光景だ。  宗一は、奥の部屋につながる木製の引き戸をちらりと見た。隙間から光が漏れ出てこないところを見ると、奥の部屋も明かりをつけていないのだろう。──この人たちは、なぜ奥の部屋ではなく、ここにいるんだ? それに、なぜ顔を隠している? 予期せぬ光景に、宗一の頭は混乱した。  そして、部屋には他にも奇妙な点があった。そこには食事のためのテーブルもイスもなく、その代わりに大小様々な大きさのプラスチックの衣装ケースのようなものが、何段にも積み重ねて置かれていた。部屋の中央、壁際、キッチンカウンターの上……。それらのケースはどれも、半分くらいが空間で、残りは土か何かが入っているようだった。  そのうちの一つに宗一が近寄って目を凝らすと、ケースの底に敷かれた土の上を、何十匹ものムカデがうごめいているのがわかった。その下のケースはゴキブリだ。宗一はケースから目をそらして、込み上げてくる吐き気を必死に抑えた。 「ああ、それ……私のペットなんです。別に、虫を飼っちゃいけないという決まりはありませんよね?」  宗一は田中を無視した。ここにやってくる前の意気込みはどこかへ消え失せて、一刻も早く仕事を終わらせて、この場を立ち去りたいという気持ちになっていた。 「シンクの下を……見させてもらいます」  宗一はシンクの下の戸棚を開けた。中にはやはりプラスチックケースがいくつも入っていたが、宗一はできるだけ中身を見ないようにしながら、取り出して床へどけた。  田中の視線を背中に感じながら、宗一はシンクにつながる排水管のまわりを調べた。どうやら排水管が先のほうで詰まっていて、流れなくなった水が漏れ出してきていたようだ。戸棚の底の板を切ってみなければわからないが、床下に水が溜まっている可能性もある。もしかしたら、床を通じて隣の部屋まで染み込んでいるかもしれない。  宗一は田中を振り返った。 「やっぱり、シンクの下から水漏れがあったみたいです。業者を呼んで作業してもらいます」 「作業は、どれくらいかかるんでしょう?」 「どうでしょう……。一度、見てもらわないと分かりませんが、隣の部屋の床まで浸水している可能性もありますので、そちらも見させてもらうことになると思います」 「それは困ります。やめさせてください」  田中はきっぱりと言った。 「……そういうわけにはいきませんよ。浸水を放っておくと、より被害が拡大する可能性もあるんです。もし作業が長引くようであれば、別の空き部屋を用意することもできますから」 「そういう問題じゃないんだ!」  田中は突然、大声を上げた。 「これ以上、他人に入られたくないと言ってるんだ!」  突然の豹変ぶりに、宗一は一瞬、呆気にとられたが、生来の負けず嫌いの性格もあって、すぐに強気になって言い返した。 「あなたねえ。一体、何様なんだ。ここはうちのアパートだ。もし水漏れがひどくなったら、修繕するのに多額の費用がかかる。あんたに責任が取れるのか」 「だったら、私が隣の部屋を調べて、問題がないかどうか伝えれば、それでいいだろう!」 「あんた、一体どうして、そんなに奥の部屋に入られたくないんだ? 何かヤバいものでも隠してるんじゃないのか」 「何も隠していない! 出て行け!」 「ふざけるな! 見るまで出ていくものか!」  怒りによるものなのか、先ほどまでの恐怖はいくらか後退し、代わりに、何がなんでも奥の部屋の秘密を確かめてやろう、という気持ちが湧き上がってきた。そして、この不気味な男を、俺のアパートから追い出してやる──。 「もういい、部屋を見せろ!」  宗一は田中を押し除けた。ダイニングにいた他の3人の体が、後ろを向いたままビクンと反応した。田中は「やめろ!」と叫びながら宗一の腕を必死につかもうとしたが、宗一は強引に振り払った。そして、奥の部屋への引き戸に手をかけて、一気に引いた。  部屋の中は、20人ほどの男女で埋め尽くされていた。全員が床の上でじっと身をかがめて、こちらを見つめている。ダイニングからの明かりを受けて、近くの数人が小さく悲鳴を上げ、慌てて顔を背けた。窓のカーテンはぴったりと閉められ、部屋の奥は薄い暗闇に包まれている。宗一はその闇の中に、確かに見た。ピンポン球のように大きく丸く真っ白な目を見開いて、横幅15センチはあろうかという口いっぱいに尖った歯を生やした彼らの顔を──。  そして、ダイニングの明かりが消えた。  その後に起こったことを、宗一は覚えていない。気がつくと、病院のベッドの上にいて、いつの間にか夜は明けていた。アパート近くの道路で宗一が倒れているのを通行人が発見し、病院まで運ばれたということだった。調べてみても、体のどこにも怪我はなかった。  アパートに戻ると、田中の部屋はもぬけの殻になっていた。あの不気味な男女も、たくさんの虫の入ったケースも、一夜にしてどこかへ消えてしまい、部屋にはなんの痕跡も残っていなかった。後日、水漏れを修理した業者から、排水管の中に泥や枯葉が詰まっていたことを聞いた。  宗一は考える──。彼らは、何者だったのか。幽霊や妖怪の類か、それとも、宇宙から来たモンスターか。いや、彼らは確かに人間だった。もしかしたら、太古の昔、暗闇の中で生活するようになった我々の祖先の一部が、今の人類とは異なる進化を遂げたのかもしれない。そして、彼らはいまもこの社会のどこかに身を隠しながら、一族の血を脈々と伝えて生きているのだろう。
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