アリの巣は死せず

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 彼が最初にそれに気づいたのは、ある平日の朝だった。 「うわっ」  新井翔太は、手にしたコップを思わず取り落としそうになった。2匹のアリが、コップに注がれた牛乳の上に浮かんでいたのだ。アリたちは既に死んでいるようだった。  牛乳パックの口を開けて中を見るが、何もいない。最初からコップの中に入っていて、気づかずに注いだのだろう──。翔太はそう考えて、コップの中身と、念のためにパックの残りもトイレに捨てた。パックの中にはやはり何もいなかった。  出勤の時間が迫っている。コップがあった戸棚の中を調べてみるのは、帰ってからにしよう──。翔太はアパートを出た。そして、夜遅く帰ってきたときには、アリのことは忘れていた。  数日が経ったある晩、翔太がベッドに寝転がって本を読んでいると、肩のあたりを何かが這うような感覚があった。手でピシャリと叩くと、アリが潰れていた。それ以来、部屋の中で頻繁にアリを見かけるようになった。  洋服たんすの中、電気ケトルの中、米びつや砂糖の容器の中、パソコンのキーボードの隙間……体長2ミリほどの小さなアリが、様々な場所で見つかった。靴を履こうとすると、中から出てきたアリが脚を登ってきた。風呂に湯をためてから見に行くと、水面を3匹も泳いでいたこともあった。翔太はベッドの下や本棚の裏、戸棚の中などを調べたが、数匹の死骸が見つかっただけで、彼らがどこからやって来ているのかは分からなかった。  あるとき、ベランダにつながる大きな窓のレールの上で、アリが列をなしているのが目に入った。ベランダには、趣味の家庭菜園のプランターが並べて置いてある。翔太は合点がいった。プランターを調べてみると、やはり、いくつもアリの巣ができているようだった。  網戸に穴が空いている様子はないが、きっと、どこかに隙間でもあるのだろう──。アリ用の毒餌を買ってきてプランターの近くに置いたところ、付近をうろついていたアリたちは、その日のうちにいなくなった。  これでひと安心だ──。念のため窓は閉めたままで、翔太は眠りについた。  夢の中で翔太はひとり、小学校の花壇の前にいた。じょうろで花に水をやっていると、花壇のレンガと土との間にできた穴を、何匹ものアリが出入りしているのに気づいた。アリの巣だ──。翔太は近くの蛇口にゴムホースをつなげて水を出し、ホースの先端をギュッとすぼめて巣に向けた。水の勢いで入り口が崩れ、溢れ出した水とともに数匹のアリが浮かんできた。それを見て翔太はケラケラと笑った。  翔太は満足して、蛇口を締めようとした。ところが、どれだけ力を込めようとも、蛇口は固定されたように動かない。さらに不思議なことに、ホースから出る水は止まるどころか、逆に勢いを増していく。ホースが暴れて、花壇の外に水を撒き散らした。逃げようとしても、どういうわけか翔太の体までもが動かなくなっていて、叫ぼうとしても声が出てこない。みるみるうちに、花壇の周りはおろか、誰もいない校庭の端にいたるまで、あたり一面が水びたしになった。さらに水かさは増し、翔太の腰にまで達する。いまや校庭は湖だ。そして、水面は翔太の胸に達し、ついには頭まで──。  翔太は目を覚ました。なんだか全身がむず痒い。自分の体を見回すと、目に入るだけで10匹を超えるアリが体の上を歩きまわっていた。 「わあっ!」  翔太は飛び起きて、服を脱いで床に叩きつけた。肌に付いたアリたちを手で払い落とし、そのままの勢いでシャワーを浴びた。髪の中から2、3匹が流れ出て、渦に乗って排水口に消えた。バスタオルを手に取ると、そこにもアリがいた。  その日、翔太は休暇を取った。  翔太はベランダに出て、プランターの中身をすべてゴミ袋にぶちまけた。育ちかけのレタスが、ほうれん草が、チンゲンサイが、袋の中で土に押し潰されてぐしゃぐしゃになった。そして、土ごと近所の公園内の雑木林に捨てられた。  それから、翔太はホームセンターで接着剤を買ってきて、壁紙やフローリングの端の隙間をまんべんなく埋めた。ガムテープで換気扇をすべて塞ぎ、毒餌を部屋のいたるところに置いた。冷蔵庫の中の肉や野菜はもちろん、調味料なども全て捨てた。  それでも、アリは現れ続けた。  いまや、寝る前に虫除けスプレーを身体中に噴きつけ、服を着る前に空中でバサバサと振るい、靴を履く前にバンバンと手で叩くのが習慣になっていた。  翔太の住む1Kのアパートは、彼が勤める会社が借り上げて社員寮として使用しているものだった。翔太は総務部を訪ねて、部屋を変えて欲しいと懇願した。対応した先輩社員は、病人のようにやつれた彼の顔を見てぎょっとした。そして、翔太は2キロほど離れた別の社員寮へ移動することになった。  引っ越しが終わった日、翔太は久々に安らかな気持ちで夜を迎えていた。夕飯代わりのポテトチップスの袋を開け、中身を全て紙皿の上に出す。箸で一枚一枚をより分けながら、どこにもアリがいないことを確かめた。そう、もうどこにもアリはいない。もう、こんなことをする必要はないんだ──。翔太はテレビを付けて、音楽番組を見ながら鼻歌を歌った。  ふと皿の上に目をやると、ポテトチップスの黒い点がアリのように見えてきて、気分が悪くなる。それどころか、動いているようにすら見えてくる。いや……やはり、本当に動いている! 皿の上のポテトチップスはいつの間にかアリにまみれていた。翔太は叫び声を上げて、手で皿を払い除けた。ポテトチップスのかけらがあたりに散らばった。へたりこんで背後の床に手をつくと、何匹かを押し潰した感触が手のひらに伝わった。目を凝らして部屋を見回すと、天井を、壁を、床を、何十匹ものアリが動き回っていた。    次の日、アパートのゴミ置き場には、いくつもの本の束と、大量の袋詰めの衣類が捨てられていた。その次の日には、リサイクル業者が翔太の部屋を訪れて、トラックいっぱいに家具や家電を引き取っていった。さらに次の日には、工事業者がエアコンを取り外して持っていった。もはや、翔太の部屋にはベッド以外のものはほとんど無くなっていた。  それでもアリは現れた。  一体、なんで俺がこんな目に──。翔太は床に突っ伏して、手でバンバンと床を叩きながら、声を上げて泣いていた。ふと横を見ると、ベッドのマットレスの側面の布に、小さな綻びがあるのに気付いた。そして、そこにできた穴にアリが入っていくのが見えた。  翔太はその綻びの両側に手をかけて、力まかせに一気に引っ張った。布が音を立てて裂ける。その瞬間、中から、何千、何万というアリの波が飛び出し、翔太の視界を埋め尽くした。  翔太は最後に残った靴を履いて、アパートの外へと出ていった。そして、帰ってきた時には、灯油のポリタンクと、コンビニの袋を手にしていた。部屋の中央に鎮座するベッドは、いまや黒と白の動くまだら模様だ。それを見下ろしながら、翔太は着ている服を一枚残らず脱いで、マットレスの上に放った。 「おっと……あれも忘れないようにしないと」  翔太はさっき履いていた靴を持ってくると、脱いだ服の上にそれを置いた。ポリタンクの栓を外して、中身をマットレスになみなみと注ぐ。灯油にまみれたアリたちは慌てふためき、ジタバタともがいている。翔太の目には、まるで命乞いをしているかのように映った。 「フフフ……アハハ……」  翔太は込み上げてくる笑いを抑えられなかった。ポリタンクを傾けながら部屋をぐるりと一周し、キッチンまで歩いたところでちょうどポリタンクは空になった。裸足で玄関に立って、コンビニの袋から着火ライターを取り出し、先端を床に近づけてトリガーを押し込む。一瞬にして炎が上がり、キッチンに、ベッドルームに、マットレスに伝わった。そして、部屋の全てが炎に包まれた。  翔太は一糸纏わぬ姿のまま玄関を飛び出した。 「アハハハハハ……アハハ……アーッハッハッハーッ!」  やった、やったぞ……ついに、一匹残らず殺してやった──。  晩秋の冷たい風も、小石が足の裏に突き刺さるのも、通行人が驚いて彼を見つめるのも、翔太には気にならなかった。ただ勝利の喜びに浸り、笑い声を上げ、涙をぼたぼたとこぼしながら、夜の町をどこへともなく駆けてゆく。  その涙と一緒に、自分の目から何匹かのアリがこぼれ落ちてきていることに彼が気づくのに、そう時間はかからなかった。
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