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「はぁー。はりきり過ぎたなぁ~!」
会社を出ると、もう外は真っ暗だった。
暦の上では立春を過ぎ、日中は少し暖かい日もあるが、まだ朝晩は冷える。
すっかりシャッターが閉まり、閑散とした商店街の中を歩く。一本隣の方が飲み屋街で明るく、人も多いだろうが、会社からはこちらの商店街の方が近かったので敢えてそちらを歩いたりはしない。
『2.14 バレンタインデー』。
茶色のハートがでかでかと印刷されたポスターは、そこかしこに貼られていて、「ああ、そういえば」と思い出す。もうすぐだったな。バレンタインデー。
部署内唯一の女性社員である私は、去年、部署内限定で男性社員にチョコを配った。今年も例年通り、他部署の女性社員も部署内の男性にチョコレートを用意するだろう。
今年はバレンタインが日曜日だから、前倒して、金曜日には用意する必要がある。
去年はそんなに意識していなかったが、内、一つが本命なのだと言うことに。とてもドキドキと心臓が高鳴った。
それとなく、さりげなく、渡せるのだ。合法に。…いや、どんなチョコだって合法だけれども。本命のバレンタインチョコを…。
そんな時、後ろで足音が聞こえた。
すっかり活気の無い静寂のシャッター街で、私以外の足音を聞くことは、ほぼ無い。
こんな時間には、尚更だ。
(えっ……)
フラッシュバッグするのは、小学高学年の頃。
放課後友達と遊んで、すっかり日が暮れた夕方に一人で帰った。
今でも実家に帰る時には車で通る道で、いきなり、口を塞がれてお尻を触られた。
………あの時は、たまたま近所に犬を飼っている家があって、その犬が吠えて助けてくれた。
しかし、今は、まさか野良犬すら居ないであろう、シャッター街。
点々と灯る頼り無い明かりしかない。
無用心と言えば、無用心だった。
小柄な私は、特に狙いやすいのかもしれない。その後も、痴漢行為には何回か被害にあったことがある。
(………こわい、)
立ち竦みそうになるのを、なんとか足を動かして前に進んだ。
足音は、ゆっくり、でも確かに、後ろを着いてきている。わざとゆっくり歩いてみても、絶対に私を抜いて行ったりしない。
(…ついてきてる…!)
確信した。
震えそうになる全身を、悟られてはいけないと気丈に歩き続けた。少し、早歩きになる。
(もう少し………。もう少しで、大通り…!)
駆け出してしまうと、それが刺激になるのが怖くて。
走り出したい気持ちを抑えて、早歩きで進む。
「おいっ!」
「きゃッ、」
いきなり肩を掴まれて、つい、短い悲鳴をあげる。全身が硬直して、咄嗟に身構えた。
「…大丈夫か?」
え、
聞き慣れた声であることに気が付いて、視界を塞いでいた自分の腕を避ける。
「………かとう、さん……」
ドッドッド、と脈打つ鼓動が、少しずつ落ち着く。止めていた息を吐いた。
「……今、誰か、後ろに居ませんでした…?」
まさか、加藤さんが追いかけていたの?と思ったけれど、それならもっと早くに声をかけてくれていたはず。
「………なんか、つけられてるみたいだったな…」
「……つけられてる…」
私はまた全身から血の気が引いたのがわかった。
意識して止めていた体の震えを、もう誤魔化せない。
「………」
それでも、溢れる涙はなんとか溢さない。
「……あー…、家まで…は、まずいかな…。えーと…、山梨さん、晩御飯まだだろ?良かったら、食べて帰らんか?」
「え、」
涙を必死に堪える私を見てはいけないと思ったのだろう。加藤さんは引き留める為に掴んだ肩を離して、そっぽ向く。今の内に、涙を拭った。
「……いいんですか?加藤さん、息子さんが…」
「いやいや!言って、大学生だから。待ってるとか無いし。…奢るけど?」
「奢りなら行きます」
まるでタダ飯が目当てのように顔を綻ばせれば、やっと加藤さんもほっとして笑った。
「現金なやつ!」
「えっへへ!」
家まで送ろうか?と言いかけて、ご飯に誘ってくれた気遣いが嬉しい。
一人暮らしであることを覚えてくれていたのだろう。流石に、そんな女性社員のアパートに行くのは悪いと考えたのだろう。何処かに逃げた、後ろをつけていた不審者がまだどこで見ているかともわからない。
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