処刑前夜

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「正男さん。あなたの犯した罪に、わたしが気づかないと思っていたの?」  花江は物静かな男に笑みを浮かべる。正男はダイニングテーブルに伏したまま動かない。 「正男さん、わたしがあなたのことを、どれだけ愛していたか理解できるかしら。愛しているじゃない。愛していたか、よ」  初恋は実らないという通説は、花江にとって通説でしかないと信じて早二十年。花江は四十半となり、お世辞にも美しいとは云えない。  しかし正男は娘が生まれて花江が母となったとしても、彼は花江を女として扱ってくれた。  正男を誠実な男だと盲目的に信じていた花江を待っていたのは、一人娘の香澄からもたらされた残酷な事実。 「ほら、お母さん。あたしの言ったとおりでしょ?」 「香澄……?」 「お母さん。あたしを見て。あたしを褒めて」  香澄がダイニングチェアーの背に手をかける。花江は背後から娘に抱かれる形になる。 「大丈夫。何も心配しなくていいの。あたしがお母さんを守ってあげるから」  香澄は花江の若い頃の生き写しのように美しく育った。花の高校生だというのに彼氏のひとりも連れてこない。香澄は文字通り高嶺の花で、母である花江は誇りに思っていた。  いま、このときまでは。 「……正男さん。わたしは本当にあなたのことを愛していたのよ。愛していたのに……どうして…………どうして、香澄に手を出したの?」  正男は実の娘である香澄に性的暴行を犯していた。香澄からその事実を聞かされたとき、花江の心を動かしたものは、もうこの男と生きていけないという絶望感だ。  正男をこの手で殺すと心に誓った。  明日殺そう。明日がだめならば、明後日に殺そう。何日も足踏みしていた花江が実行日を決めた前日、すべてが崩れ去ってしまった。 「正男さん……っ」 「お母さん。あいつはもう死んだんだよ。あいつじゃなくて、あたしを愛して」  香澄の鈴のような声とともに、彼女の吐息をうなじに受ける。花江は身体の震えを娘に気づかれないように深く息を吸う。 「お母さん……」 「…………香澄、早くシャワーを浴びてきなさい」 「はぁい、お母さん」  香澄はすうっと花江の頬を撫でて、シャワールームに向かう。花江の頬には香澄の手の軌跡が赤く記される。 「正男さん……わたしはこれからひとりで、あの娘とどう接していけばいいの?」  血の海に沈む正男の背中には、深々と肉切り包丁が刺さっていた。  了
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