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父親を討たれた王女のとある晩
窓に歩みよるとガラス戸を開き空を見上げた。大きな満月に数えきれないほどの星ぼし。美しい夜空だから明日はきっと晴れるだろう。
良かった、と思う。
明日は婚礼だ。気は重く、恐ろしくて仕方ないのに天気まで鬱々としていたら、私は気丈にふるまえなくなってしまうかもしれない。
私の夫になるディーター・バシュには昨日会ったばかりだ。彼は農民から成り上がった剣士らしい。仲間とともに反乱軍を立ち上げて、悪政を働く国王を倒した。そして自分が王位に就くつもりなのだが、対外的に正当性を主張するために王の娘との結婚を望んだ。
つまりその娘が私だ。私は父や兄たちを惨殺した男に嫁がなければならない。
ただ幸いなことに、私は彼らをよく知らなかった。
病弱だった母は私を産んだあとに更に身体を壊し、医師には都に吹き付ける海風のせいだと診断された。そこで山の中の離宮に移り住んだのだが私も一緒に連れて行かれ、十六年、そこで過ごした。父や兄に会ったのはほんの数回。親愛の情がどうこう以前に、顔もよく分からない。噂で民のためにならない政治ばかりする愚王一家とは聞いていたけど、母や私は離宮周辺の地元の人たちとは仲良くやっていたので、噂のことはあまり気にしていなかった。
先月に母が亡くなり私が都に移り住むことが決まると、乳母のマチルダや離宮の使用人、それから地元の人たちが必死に止めてきた。反乱軍が破竹の勢いで各地を制圧して都に迫っているから、と。
だけど私は実態がよく分からない反乱軍よりも父とその遣いのほうが恐ろしかった。
なるようになれとの気持ちで都に来てそのわずか数日後、城に反乱軍がなだれ込んで来たのだった。あとになって分かったことだけど、父が私を呼び戻した理由がディーターだった。旗色が悪いと思った父は彼に王女との結婚を提案して、矛を納めさせようと考えたらしい。
ディーターはそれを一蹴して父たちを倒し、彼らの首は今、広場に晒されている。
私は殺されなかっただけマシなのだろう。悪政に加担はしていないけれど、改まるように活動もしていない。国と民を治める側として失格であることは間違いない。結婚で許してもらえるのなら……
……ディーターは昨日、一度会っただけだけど本で見た熊のように大きくて厳つくてもじもじゃで汚くて、そして父たちの血にまみれていた。高圧的で声が大きく態度は粗野だった。
正直なところ、とても怖い。できることなら逃げ出したい。
突然、手が現れて窓枠を掴んだ。
「ひっ!」
声を上げ後ずさる。ここは二階だ。
「叫ばないで!」
そんな声と共に窓を越えて黒い影が部屋の中に飛び込んできた。
「クローデッド!」影が小さな声で鋭く言う。
「ケヴィン!」
影は乳兄妹で幼なじみのケヴィンだった。生まれたときからずっと一緒にいる。彼は離宮では警備兵の見習いをしていたのだけど、私を心配して乳母と共に一緒に都に来てくれた。
「クローデッド!」とケヴィンは私の手をとった。「逃げよう。準備はできている」
「……逃げる?」
「そうだ。ずっと母親の介助に忙しかった君が、なぜ犠牲にならなければならない。君は確かに身分は王女ではあるが、革命軍に利用されるべき人間ではないんだ。いったい君の幸せはいつ来る?」
ツキンと胸が傷んだ。
お母様のことは大好きだった。身体が弱い彼女の力になりたくて、いつもそばにいて私ができる限りのことをしていた。だけど、ほんのたまに、離宮以外の世界を見てみたいと思うときもあったのだ。
ディーターの妻になったらきっと、愚王の娘の私に自由なんてなく、外の世界なんて夢のまた夢だろう。それだっていつまで続くか分からない。
私の幸せ。
まるで綿菓子のように甘い言葉。
「さあ、行こう」
私の手を握っているケヴィン。彼にずっと片思いをしている。身分差が大きいからこの気持ちを伝えてもケヴィンは困るだけだろうし、私はいずれ政略結婚をするだろうからと考えて、気持ちに封をしてきた。
だけど共に逃げたなら……。
「クローデッド。今までは言えなかったけど、俺は君が好きだ。こんな結婚は見ていられない。苦労はさせるかもしれないけど絶対に守る」
ケヴィンの真剣な眼差しに、涙がこぼれた。
「嬉しい。私もケヴィンが好きよ」
彼の顔が輝く。
「だけど一緒には行けないわ。もし捕まったら、あなたは殺されてしまうかもしれない」
「その時はその時だ」
「それにマチルダは? 私と共に逃げたのがあなただと知られたら、彼女がひどい目に遭うわ」
「母さんには、姿が見えなかったから、『すぐに逃げて』と置き手紙をしてきてある。大丈夫だ」
私は首を横に振った。
「とても平気だとは思えない。ケヴィンやマチルダが父様たちのようになるのは耐えられないわ」
「だけど!」
「私はあなたやマチルダが、元気で幸せに暮らしてくれるほうが嬉しいのよ!」
「君らしいけど……」
そう言ったケヴィンは私の手を唇に押し当てた。目にうっすら涙が浮かんでいる。
「……どうしても俺とは逃げられないか?」
「ごめんなさい。ケヴィンの気持ちだけで私は幸せ。ありがとう」
「……分かった」
彼は私を抱き寄せキスをすると、
「もし見るに耐えないと感じたら、また迎えに来るから」
と言って、再び窓枠を越えて外に出ていった。
にわかに静かになった部屋でそばの椅子に座る。
ケヴィンが私を好きだった。共に逃げようと誘いに来てくれた。
私はそれだけで幸せになれた。明日からの生活がどんなものになろうとも、頑張ることができそうな気がする。
初めてのキスを思い出してほうっと息をついたその時、扉を叩く音がした。誰だろうと考えながら
「どうぞ」と答える。
すると扉が開き、そこには荷物を抱えた大きくて厳つい男がいた。
「遅くにすまない。ちょっと構わないか?」
その声に男がディーターだと気づく。汚くも、もじゃもじゃでもないから分からなかった。髪を整え髭を剃ったらしい。昨日の姿に比べると、恐ろしさが薄らいでいる。怖いことには変わりないが。
「はい。何でしょうか」
立ち上がると、彼は部屋に入って来た。
手にしていたものを近くの椅子に置く。
「これは城にあった婚礼衣裳だそうだ。好きなものを選んでおいてくれと、女中が言っていた」
荷物はどうやら大量のドレスだったらしい。
「で」と彼は咳払いをした。「マチルダとかいう女から聞いた。おま……君は生まれてからつい先日まで、山の離宮で病気の母親の世話をしていたとか。王に会ったことはほとんどなく、国内の状況もよく知らなかったそうだな」
「不勉強で申し訳ございません」
「いや、そうではなくて……。昨日はおま……君の話も聞かずにこちらの意見ばかりを言ってすまなかった。だいぶ辛辣だった」
「私も王族の一員なのですから、知らなかったでは済まされないと考えています」
「……そうか。お前は父親や兄たちとは考え方が違うようだな」
そう言うディーター自身、昨日とは違って見える。落ち着いているし、敵意剥き出しでもない。
「俺たちは、民が平和に暮らせることを願っている。そのために障害になっていた王を倒した。王だから倒した訳じゃない」
「はあ……」
何が違うのだろう?
「だから、ええと」ディーターはもどかしそうな顔だ。「……相手の事情を無視して己のしたいように振る舞う。昨日の俺はそうだった。だがこれじゃお前の父親がやっていたことと変わらん」
なるほど。
「マチルダという女は凄いな。震えながら、俺に説教を垂れた。憎むべき相手をきちんと区別しろ、とな」
そうか。彼女はディーターの元に行っていたから、ケヴィンは見つけられなかったのだ。
「昨日は怖がらせて悪かった。俺は暴君になるつもりはないんだ」
そう言って父と兄たちを殺した男は頭を垂れた。
すぐに上げた顔は真っ直ぐに私を見ている。
「俺が憎いだろうが、諸外国に侵略の口実を作らせないためにはお前の存在が必要だ。観念して俺と結婚してくれ」
私は意を決してディーターに歩み寄った。やはり大きい。大木のようだ。見上げなければ顔も見えない。
そばで見ると、きめの粗い肌で固そうだ。いかにも農民、ということなのだろうか。右頬と左眉の上には傷跡がある。目元にはシワ。けっこうな中年に見える。
「粗野な態度は直せんが、妻として丁重に扱うと約束しよう。というより約束せねば、己の命と引き換えにしてでも刺し殺すとマチルダに脅された」
「……私の乳母は素敵でしょう?」
「そうだな」
ディーターが微笑んだ。笑うことも出来るらしい。
ケヴィンと逃げなくて良かった。考えていたほど、ディーターは恐ろしい人ではないみたいだ。私は王女としての役目をまっとうしよう。
「あなたを憎いかは分かりません。父たちはほぼ知らない人でしたから。彼らより、このように丁寧に謝罪に来て下さったあなたのほうが余程好感があります」
「そりやどうも」
「王族としてあなたの妻として、努力すると約束しましょう。明日からはどうぞよろしくお願い致します」
頭を下げる。
「ああ、こちらこそ、よろしく」
視界にぬっと差し出された手。顔を上げると、ディーターと目が合った。彼の手をそっと握ると強く握り返される。
「良識ある王女で良かった」と笑顔のディーター。
もしかして彼も明日の婚礼が憂鬱だったのだろうか。
彼はおやすみと言って、紳士的に部屋から出て行った。
窓際に戻り外を見た。空には変わらず大きな満月が浮かんでいる。
ケヴィンはもう部屋に戻っただろうか。
安心して。『見るに耐えない』なんてことにはならなさそうよ。
心の中で彼にそう告げて、窓を閉じた。
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