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朝日にかがやいて
午後五時のチャイムが鳴ると、近所の児童公園で遊んでいた子どもらはみんな走って家へと帰っていく。夕日に照らされてオレンジ色に染まる小さなお砂場に、誰かの忘れ物のバケツやスコップが寂しげに置き去りにされている。ふくふくとした丸い子どもの手が、今までふれていたのに。忘れられて、打ち捨てられて。
傷んだ小さな祖母の家を見たとき、俺はなぜか、子どものころの夕方の公園を思い出した。
明日にはものものしい重機の無慈悲な手によって、取り壊される古くて小さな家は、道路になる。
なんでも街の整備の一環で、ちょうどこの辺りを大きなメインストリートにして都市開発をする計画になっているそうだ。一年前、この家に一人で住んでいた祖母が天寿を全うし、とうとうこのブロックには住人がいなくなった。この一帯には、新しく人が住むこともなく、古くて朽ちかけた廃屋ばかりが並んでいるので、自治体の判断は妥当だと言えるだろう。
聞いたところによると、ほとんどの家主たち(といっても、本当に家主だった人たちはたいてい亡くなっているようなので、その家族や親せきたち)は誰も住まないわりにお金ばかりがかかってしまう空き家の管理に手を焼いていたため、メインストリート改設のために家を取り壊したいという自治体の申し出に二つ返事で了承したらしい。土地を自治体が買い取ったうえで自治体の方で家を取り壊すので、家主たちは少なくはない額を受け取ることができ、さらに面倒な家も手放せるのだから、当然と言えば当然かもしれない。
うちも例外ではなく、祖母が亡くなり、遺品整理も済んだあとは放置していたおんぼろ家屋は喜んで自治体の手に渡された。長男という手前、一応は家を管理していた叔父も肩の荷が下りたようでほっとしていた。定期的に隣県までわざわざ換気や清掃をしに車を走らせるのは、確かに楽しい作業とはいいがたい。
取り壊しの日が明日に迫った今更、どうしてわざわざそんな家に出向いているのかいえば、なにか必要なものや祖母の大切なものなどを置き忘れてしまっていないか、最終確認をしに行くためだった。
しかし、その人選にはどうも疑問が残る。この家で子供時代を過ごしたり、祖母とかかわりの深かったりする両親や叔父夫婦は、ちょうどこの時期は仕事が忙しくて隣県にまで行く時間がないと主張した。そのため、彼らに代わって現場に派遣されているのは大学が夏休みで暇を持て余していた俺と、ちょうと会社が休みだった姉という、若い二人だけ。
祖母とは決して険悪ではないものの、会うのはせいぜい数年に一度だけなので、顔すらおぼろげな印象だし、くだんの家について言えば、隣県の郊外にあるということもあって、訪れたのは幼いころに数度だけ。健脚で旅好きの祖母がふらりとこちらに来ることの方が多かったので、自然と足は遠のいた。だからこの家に関しては思い出の欠片すらなく、間取りさえ曖昧なほどかかわりがない。祖母の家、と言われても家族の家というよりも他人の家という方がしっくりくる。
果たして、この人選で家をあらためたとして、何が大切なもので何がいらないのかなんて、正直判断がつくはずもない。どうしても迷うものは持ち帰れ、なにかあれば連絡しろ、と出かける前に父から言われたが、あの人は根っからの仕事人間なので、たとえ子どもが熱を出したので学校まで迎えにこいという連絡が来たとしても、プライベート用の携帯は定時以降にしか見ない。俺たちは朝の十時前には家を出ているのだから、当然連絡など付くはずもなかった。母や叔父夫婦なら電話には出てくれるかもしれないが、たぶん「いらないと思う」としか言わないだろう。
姉も俺と同じ不満を抱えているらしく、自慢の真っ赤な愛車を走らせている間中ずっと「あーあ、あたしらが行ったってさあ、何が大事なんてわかるわけないじゃん。『取り壊しの前に一応確認はしましたよ』っていう体裁が欲しいだけだよね。そのためにわざわざあんなド田舎に行かされてんだよあたしたち。ほんとつまんない。せめて日給くれ、あたしの貴重な休日返して」と不機嫌そうにぶつぶつ文句を垂れ流していた。助手席に座る俺は流れゆく田園風景を眺めながら確かにな、とか、子どもを役に立つ道具としか思ってない節があるよな、とか適当に相槌を打っていた。いらいらしている彼女になにか言ったところで、さらに機嫌を悪くして俺に当たられるなんてことは、長い付き合いなのだから心得ていた。
それに、俺は姉ほどこの奇妙な頼まれごとについていらいらしてはいなかった。確かに、遺品の件は判断できんぞ、と荷は重かったが。けれど、廃屋ばかりが立ち並ぶ、今にもすべてが打ち壊されて更地にされてしまう廃墟のような一帯へと赴くこと自体は、なんか面白そー、と理由もわからずにわくわくする気持ちも心の隅にあるのを自覚していた。
昼過ぎにようやく目的地に到着した。どうせ誰も住んでないんだし、と姉は祖母の家の真ん前に適当に路駐する。俺は車を降りて伸びをした。静かで、まるでどこにも着色されていない白黒写真の中に入ってしまったような錯覚に陥るほど、周囲は灰色にくすんで見えた。たった今まで俺たちを乗せて走ってきた、ぴかぴかに手入れの行き届いた真っ赤で今どきの車は、まるで昔話の絵本に、きらびやかなファッション誌からモデルさんを切り抜いて貼り付けたみたいに、アンバランスだった。
エンジンを切った姉が、気だるそうに車から降りてきて、俺と同じように伸びをした。丈の短いシャツが持ち上がり、形のいいへそがちらりと見える。
「姉ちゃん、運転お疲れさん」
「あんたも早く免許とりなよね、姉ちゃんを楽させなさいー」
「あはは、バイト代たまったらな」
言いながら、俺は父から預かった合鍵を使って鍵を開ける。
「おじゃましまーす……」小声でつぶやいて、俺たちは中へと入った。
一年前まで祖母の住んでいた家は二階建てで、一階には六畳のたたみの間が二部屋続いている。玄関側の一部屋にはこぢんまりとした台所が付いていた。叔父が掃除をする際に必要だからと、水道は通ったままにしてある。電気は通ってないようだ。隣の部屋は一面が大きな窓になっていて、縁側付きの庭へと出られた。たまに来ていたという叔父も、さすがに庭までは手が回らなかったのだろうか、雑草がのびのびと生い茂っていて、まるで緑色の海でも広がっているみたいだ。
廊下を渡って奥へ行くと風呂とトイレがある。廊下の突き当りには、二階へと続く階段があった。上がってみると、この部屋だけは板張りで、勾配天井になっていて空間が三角に切り取られている。おそらく、物置にでも使っていたのだろう。大きな天窓から日が差し込んで気持ちがいい。ただし、庭と同様に叔父は二階の部屋の存在も忘れていたようだ。いやにほこりっぽい。俺は自分がアレルギー性鼻炎なんかの持ち主じゃなくてよかった、と心から思った。もちろん、一応不織布マスクはしている。
「やっぱ来なくてよかったよねえ、あたしたち。まず物自体がほとんどないじゃない。捨てるのが面倒だった大型の家具と、少しの食器と、掃除用具とかび臭い布団。父さんが言ってたみたいな古いアルバムも高価そうな着物も、あるわけないじゃんね。てか、これって掃除とかしに来てた叔父さんが使ってたんじゃないの?」
「な。さすがに拍子抜けした。押し入れも箪笥もほとんどからっぽだ。叔父さんなら、なにもないってことわかってたんじゃないかな」
「はーあ。大人って身勝手だよね。もう帰ろー」
「……。……俺、もう少しここにいようかな」
無意識に、そう口走っていた。
今、帰ってしまったら、もう二度とこの家には入れない。というか、この灰色の廃墟一帯がなくなってしまって、きっと次に通ってももうただの道路になっていて、この家があった場所だなんて誰も気が付かないだろう。
この家に、工事関係の人以外が訪れるのも今日が最後だ。俺たちが、この家の長い長い歴史に終止符を打つ人間なんだ。
そう思ったら、急に離れがたくなった。
「えー。早く帰ろうよー」
面倒くさそうな目付きで俺を見上げる姉に、この気持ちをきちんと伝えられるという自信はまったく沸かなかった。姉の理解がないのではない。いかにも薄情そうな姉だが、わりと俺には甘いし、俺の気持ちを汲み取ってくれる優しい人だと知っている。
「いや、姉ちゃんは帰っていいよ。明日仕事だって言ってたし、遅くまで付き合わせるの悪いし。なんか、もう少しこの家で過ごしてみたくてさ。俺は電車で帰るから」
「えー、だってこっから駅までだって相当遠いよ?」
「まあ、一人旅だと思ってのんびり行くよ」
「一人旅ねえ。……まあ、学生の間にしかできないだろうし、青春? したらいいんじゃない。ド田舎だけどね」
言いながら、姉は財布から一枚、札を取り出した。
「え、いや、いいよ。悪いし。バイトしてるし、ATM行けばいいから」
「いいからいいから、だってさあ。お金も渡さずにあんたを置いてきたなんて知れたら母さん怒りそうだし。姉ちゃんは意遠慮なく帰るから、あんたも遠慮なく受け取りな」
「……ありがと」
「はいはいー、じゃ、ばいばーい」
「帰り、気をつけてな」
「んー」
真っ赤な愛車に乗り込んで、廃墟から去っていく姉に手を振り見送る。異世界から迷い込んだような強烈な色彩を放つ赤は見えなくなり、エンジン音も聞こえなくなると、あたりはしんと静まり返った。立ち並ぶ家々はまるで水底に眠る貝のように、ただ、そこにあった。水底に沈んだままの音もなく灰色の砂が堆積していき、いつかはやわらかい砂にうずもれて見えなくなるような遠い時代の遺物と、街並みが重なって見えた気がした。寂寥と孤独と、途方もない時間の流れを在り続けること。
「……」
俺は姉を見送ったその足で、この辺りを散策してみることにした。念のため合鍵で戸締りをして、あてもなく歩き出す。
もともとこの辺りは住宅地だったようで、歩けど歩けど、祖母の家と似たり寄ったりの古くて誰からも忘れられた家々が続くばかりだ。灰色で、くすんでいて、ぼろくて、なにもない。
最初はそう思っていたけれど、歩くうちにどの家にもなにかしら、かつてはここに人が住んでいたのだと、かつてはここに生活の火が灯っていたのだと気づかせてくれるものの残骸が、至る所に散見された。かつてはこの家々はみんな生きていたんだ、と改めて気づく。
庭先に掃除用の箒やバケツ、農業用のシャベルやリヤカーが放置されていたり、さび付いた物干しざおに薄汚れたタオルが一枚だけ忘れ去られ、洗濯バサミにとめられたままどこにも行けず風にはためいていたり。手作りらしい犬小屋には、下手くそな子どもの字で「ハチ」と書かれた板きれが打ち付けてある。何かしら、誰かしらの思い出がつまった生活の残骸たち。
そして一方で、祖母の家の庭もそうだったように、雑草などのしぶとい草花は命を燃やさんばかりの勢いで生い茂っている。中には住人の忘れ形見のような、野生では見ないようなきれいな花も咲いていた。雑草にも負けない生命力であふれている。(俺は花の名前に詳しくないので、花の種類はわからない)
とりわけ俺の目を引いたのは、他と同じような古臭い家の雑草だらけの庭先に立つ、大きな桜の木だった。だれからも忘れられた、大きく立派な桜の木。明日には取り壊しが始まり、共に過ごした建物は全て取り壊され、自らの永い永いいのちさえ摘みとられてしまうかもしれないことすら、まるですべて知っているのかように、それでいて、そんなことは些事だとでも言うように、立派に、激しくいのちを燃やして佇んでいるかのように思えた。きっとこの木は、もう何年間も誰も見る人も愛でる人もいない中で、毎年美しい花を咲かせて幾千幾万もの花弁を散らせたことだろう。
この地域に住んでいた人たちが、どんな理由でどんな思いで家を離れていったのかは知らない。多くは祖母のように亡くなったのだろうけれど、置いて行かれたものや木や家は、たとえ人が過ぎ去ったとしても少しずつ古びながら、残り続けている。決して、塵のように消え去るわけではないのだ。
不思議な光景だった。博物館で、ガラスごしに古墳時代に作られた埴輪の黒い空洞の目を覗き込んだときや、始皇帝の時代の兵馬俑の立派なのがおびただしい数並んでいるのを見たときのような、時間に対する根源的な途方もない感覚に陥る。
静まり返った世界を数分歩き続けると、大きな道路に突き当たった。将来的には、メインストリートと交差する道路になるのだろう。四車線の、そこそこ車通りの多い田舎の通りだ。ぽつぽつと外食チェーン店やコンビニがあり、あとは田んぼと背の低い民家が数軒あるくらいのごくありふれた田舎の風景。時の止まった過去から「今」へ戻ってこられたみたいだ。これまで歩いていた廃墟のような通りがまるで白昼夢かのように思えた。
俺は昼飯を外食チェーン店の牛丼で済ませた後、個人経営らしいコンビニで夕食と明日の朝食用にパンやおにぎりやお茶やお菓子をかごに放り込んでいく。ついでにタオルと替えの下着も。それから、軍手とゴミ袋と二枚入りの雑巾と洗剤も買った。
元来た通りを歩いて祖母の家へと戻る。途中、あの桜の木の前を通るときにはなんとなく二礼二拍手一礼をした。
台所のある方のたたみの間には、放っておかれたちゃぶ台がほこりをかぶっていたので、買ったばかりのきれいな雑巾で拭いてからコンビニで買った飲食物を並べて置いた。明日の朝まで、この家に居座ることに決めた俺の貴重な食料だ。(まあ、奇跡的にコンビニが徒歩圏内にあるのでいざとなったらまた行けばいいのだが)
「さてと、やりますかね」
時刻は三時を回ったところだ。家じゅうを大掃除するのは骨が折れるだろうが、明日の朝までなら時間は十分ある。
迷った末、まず庭に着手することにした。室内の掃除で疲れてしまったあとに草むしりをする気力が残っていると思えなかったので。この家の庭自体はそう広くなかった。隣家の庭と隣接していたため緑の海が広がるほどに見えただけのようだ。軍手をはめた手でがむしゃらに草を抜いていく。根っこが蔓延っていて想像以上に力がいる。無心でゴミ袋に草を詰めた。二袋を草だらけにしたところで、庭の掃除は終わりにした。
たたみは専用のほうきがあったのでそれでほこりを払い、軽く水拭きをする。廊下と階段と二階の物置もほうきと雑巾がけをする。大きな家ではないけれど、一人でするとなかなか重労働だ。
ようやく掃除が終わったころには、もうとっくに日が暮れていた。大変空腹だったのだが、なんとかこの汗だくの身体を清めたいと思い風呂場へ向かった。置いてあったたわしでタイルを一枚ずつ磨き上げたから見ていて気持ちがいい。が、家には電気もガスも通っていないため冷水をかぶるほかなかった俺は、気持ちよさとは程遠い入浴を早々に済ませた。
真新しいタオルで身体の水分を拭きとり、同じく真新しいコンビニで買った下着を身につけた。汗だくのシャツとズボンは、迷った末に物干しざおに干すだけにした。本当は洗いたかったが、朝になって乾いていなかったら嫌だったので、あきらめた。どうしても気になったら、駅構内に入っている店で適当に買えばいいだろう。
さっぱりした気分でちゃぶ台に向かい、ペットボトルのお茶を一気飲みした。それから、コンビニで買っておいた弁当やらおにぎりやらをもりもり食べる。うまい。おやつのチョコレートクッキーまで食べ終えたところで、歯磨きを買うのを失念していたことに気が付いた。仕方がないのでうがいで済ませてしまおう。少し気持ちが悪いが、そもそも空き家での一泊に快適もなにもない。
用意周到な俺は、昼の掃除の合間に、押し入れで見つけたふとん(叔父が使っていた?)を庭の物干しざおに干しておいた。うすっぺらいせんべいふとんのわりには、ふわふわになったと思う。かび臭さは取れなかったが、気にするほどでもない。俺は掃除してほこりを取り除かれたたたみの間にふとんを敷いた。食事処と寝室は分けたいタイプなので、庭のある方の部屋に敷く。これで寝床はよし。俺はごろり、薄いふとんに転がった。やはり家じゅうの大掃除には身体はくたびれていたらしい。横になったとたん、疲れがどっと吹き出して睡魔が襲ってきた。
背中が痛くて目覚めた。視線のすぐ先には、色のはげたたたみが見える。たたみの上ならせんべいふとん一枚引いただけでも快適に眠れるのでは、と思ったが現実はそううまくいかないようだ。むくりと起き上がり、カーテンのない窓の外を見れば、いまだ薄暗い。未明の時間だ。
普段の俺であれば、迷わず二度寝を決め込む早朝なわけだが、たしか八時には工事の人たちが来るらしい。俺はそろそろ帰るとしよう。どうせ、駅まで何キロあるかわからない道のりを歩くことになるのだ。真昼の日差しに焼かれるよりも、まだ日差しの弱い朝方に歩く方が絶対に良いに決まっている。
身支度を整え、昨晩残しておいた菓子パンとパックの野菜ジュースの朝食を済ませてしまい、玄関へと向かう。
「じゃあな。さよなら」
靴を履いて、振り返る。来たときよりも格段にぴかぴかになった家に小さく呟く。
「……」
たっぷり五分は玄関に佇み、たった一晩の宿を名残惜しく感じながら祖母の家を出た。
扉を開けた瞬間、朝日のまばゆい光に包まれる。俺は思わず感嘆の声を上げた。
「わあ」
昨日は色のない世界だとばかり思っていたのに、寝静まった家々に朝日が反射してきらめていた。
たとえもう二度とこの日の光に包まれることはなくても。最後の朝でも。
俺が知らないだけで毎日毎日繰り返していた、いつもとなにも変わらない朝。
忘れないでいたい。こんなにきれいな景色を見た朝があったのだということを、俺は忘れたくない。最後の朝を垣間見ることができて良かった。
俺は目が痛くなるほど朝日に照らされた街並みを見つめた。
ふう、と深呼吸をして、スニーカーを踏み出す。今度こそ、俺は祖母の家をあとにした。
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