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近江屋事件秘話
慶応三年十一月十五日夜半……。
その夜、俺は河原町蛸薬師にある醤油商、近江屋の前にいた。
「ごめんくだされ! ごめんくだされ!」
当然、この時刻では店も閉まっている……人気のない宵闇に包まれた通りにドン! ドン! とけたたましく脇戸を叩く音を響かせ、俺は店の中の者に声をかける。
「へえ……どなたでございましょう?」
しばらくするとその脇戸が開き、手代らしい男が灯りを持って顔を出した。脇戸がずいぶんと小さく感じられるくらい、大柄で恰幅のよい男だ。
「それがしは十津川郷士にござる。才谷梅太郎先生はおられるか? お目通り願いたい」
その手代に俺はそう答えると、懐から名刺を出して差し出す。
「中井庄六郎さま……面会のお約束はございますか?」
「いや、ござらん。火急の相談事があるゆえ、失礼と存じながらも参った次第。早々に取り次を願いたい」
名刺に書かれた名を読みあげて、疑るような眼差しを向ける手代に、紋切り型のそんな台詞で俺はかの者を急かす。
中井庄六郎……もちろんそんなもの偽名だ。才谷梅太郎と親交のある十津川郷士(※大和国十津川郷出身で御所警護などをした古代からの生粋の勤皇派)の名に似せて適当につけた。
俺の本当の名は裏戸千平次。もとは福岡藩に仕えていた隠密である。
聞くところに寄れば、祖先は南蛮から…しかもイスパニアやフランスなどよりももっと北東にある、オロシヤに近い国より博多にやってきた異人なのだという。
その後、この地の女を娶って根を下ろし、脈々と今日に至るまで血を繋いできた。なので、今ではだいぶ血も薄まってしまったが、それでも顔の彫りが深かったり、瞳の色がハシバミ色だったりと、日の本の者とは少々異なる顔立ちをしていたりもする。
ああ、だが別に〝隠れキリシタン〟というわけではない。ご先祖からして異人であるにも関わらず、珍しいことにもキリシタンではなかったようだ。
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