第三話 あったかシチューと龍神様

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 肩に乗った少女の案内で、穂乃花は近くにあった襖を開けた。 「うわ、海だあ……!」  歓声を上げる。  襖の先にあるのは、座敷ではなかった。夏のうだるような暑さの中、白い砂浜が続いている。ざあああっという波の音とともに、潮の香りが鼻を刺激した。顔を突っ込んで左右を見渡すと、夏の海辺がどこまでも広がっている。  子どもの頃見ていたアニメの、どこにでも行けるドアを思い出した。誰でも一度は憧れたんじゃないかと思うあのドアが実際に……、まあここにあるのは襖だけれど。 「すごい、旅行がタダだね! いいなあ」  交通費がかさむのが旅行の厄介なところだ。目的地に着くまでの時間も、楽しくはあるけれど、出費は痛い。  親指少女が次もあるよ、と隣を示す。穂乃花は足取り軽く移動して、襖を開けた。  温かいそよ風が、頬を撫でた。  明るい光に思わず目を細める。白色の花弁が舞い込んだ。  大きなしだれ桜が一本、野原の上に立っていた。今がちょうど盛りらしい。小さな白い花が咲き乱れている。野原の草を撫でていた風が、ふわりと花弁を舞い上げる。青空に、桜が躍った。  ――あ。  一瞬、木の下に人影が見えた気がした。けれど穂乃花の気のせいだったようだ。こんな美しい木なら桜の精もいそうだと思うのに、ここには誰もいない。  しばらくぼーっとしてから、穂乃花は襖を閉めた。 「――綺麗だね。夏に春の部屋か。冬は寒そうだから、勘弁かなあ。秋は今、見飽きてるし」  じゃあここは? と少女が示す襖を開けた。  広がっていたのは湖だ。どこか山深くの、木々に包まれた静かな場所。 「今、なにか光った」  穂乃花は草地に踏み出し湖を覗き込む。優しい緑の光が、ぼんやりと水中に見えた。目をこらすと、中学の教科書に載っているような微生物に似た隣人たちが、水の中でたゆたって発光しているのだ。ミカヅキモとか、ミジンコとか、ボルボックスとか……そんな微生物を思い出す。 「ボルボックスって、コロポックルに響きが似てるなって思ってたんだ。コロポックルって知ってる? アイヌの伝承にある小人のこと」  小学生のころ流行った農場を経営するゲームがあった。未開拓の土地を耕して野菜を育て、出荷する。ゲーム中盤からコロポックルに野菜作りを手伝ってもらえるから、ファンタジーなゲームだとクラスメイトたちは言っていたけれど、穂乃花には現実味のあるものだった。 「親指ちゃん、一緒に野菜作ってみようか。リアル農場物語ってね」  穂乃花はつん、と水面をつついた。隣人たちは驚いたのか、ぐんっと水底に沈んだ。光が遠くなって、薄暗くなる。  怖がらせた……、と親指少女が呆れた顔をするから、穂乃花は慌てた。 「悪気はないんだよ。ごめんねー、隣人さんたち!」  それでも隣人たちは水底から帰ってこなかった。  静かになった水面には、穂乃花の姿が鏡のように映っている。見慣れない、白無垢姿だ。ふと寂しくなった。 「――こういうのは、雪斗さんに最初に見てほしかったなあ」  呟いた自分の言葉がスポンジに水が染み込むように、胸を重くしていく。  いつか、こんな格好で彼の隣に並べるだろうか。  水面を撫でれば、自分の姿が歪に揺らいだ。 「私、普通の人だったらよかったのになあ」  隣人が視えなければ、雪斗の母親にだって怖がられなかったのに。それだけじゃない。もっと気楽に生きられたはずだ。  隣人なんて、視えなければよかった――。  親指少女がつんつんと穂乃花をつついた。心配そうな顔だ。はっとした。 「……ごめん! なんでもないよ。気にしないで」  優しい隣人のことは、悪く言わない。傷つけない。穂乃花の決めていることだった。  結婚、両親、写真――、寝込んでいる間、夢にぐるぐる現れた。身体が弱っているときは、心も弱るらしい。穂乃花にとっては、あまり考えたくないことが延々と頭から離れない。  どうにかしたいなあ。  穂乃花は周囲を見渡した。ここにいるのは、穂乃花と親指少女と、水底にたゆたう隣人だけ――、よし。ここなら、いいか。  穂乃花は大きく息を吸い込んだ。 「……私だって」  一度肺に空気をためこんで、 「結婚したいわあああああああ!」  親指少女が目を丸めて、びくっと跳ねた。 「雪斗さんと、結婚したいに決まってる! 私、いたずらする隣人を怒っただけなのに! 怖がられることしてないのに!」  視えないものを怖がる雪斗の母の気持ちは、分からないでもない。うまくやり過ごせなかった自分も憎い。もやもやする思いを腹にためて、 「ああああ、もうーっ! ばかああああああ!」  声の限り叫ぶ。  肩で大きく息をした。  ちょっと、すっきりした。 「よし、親指ちゃん! 今のは雪斗さんに内緒ね! 次、いこ!」  にっと笑うと、どかどかと黒光りする廊下に戻って、穂乃花は次の襖を開けた。
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