83人が本棚に入れています
本棚に追加
名古屋から関西方面に続く近畿鉄道に揺られ、近代の文豪、泉鏡花の『歌行燈』の舞台にもなった桑名の駅でローカル鉄道に乗り換え。計一時間と二十分揺られてたどり着く「南風岡駅」。岐阜の田舎にある小さな駅だ。
今時珍しい無人駅。しかもicカードに非対応。
駅からは、一時間も歩けばもう山だ。
その山の中に建つ日本家屋に、穂乃花と雪斗は越してきた。
もともとは雪斗の祖父母の家で、祖父が亡くなったあとは、老婦人である千代一人が生活していた。しかしそろそろ一人暮らしは心配だから、と愛知に住んでいる雪斗の母が同居に誘ったらしい。
だが千代は渋ったようだ。祖父と暮らした家を空き家にするのは嫌だ、と。
そこで救いの手を差し伸べたのが雪斗だった。「じゃあ、俺がおばあちゃんの代わりに、南風岡に住むよ」と名乗り出て、そこに穂乃花もついていき、今に至る。
「引っ越しって、結構大変だね。どれから片づけよう」
「あ、雪斗さん、それ夏服の段ボールです。まだ使わないから、後回しにしましょう」
「本当だ。じゃあ、隅に置いておくね」
雪斗はよいしょ、と段ボールを移動させる。
穂乃花より三つ年上の雪斗は、垂れた目が優しい性格を表している人だった。髪は長毛猫のように柔らかい。まつ毛は長いし、色白だし、男性にしては線も細いから、女装が似合うのではないかと穂乃花は思う。
「やっぱり着物かなあ……、大和撫子、似合いそう」
「なんの話? あ、穂乃花さん。見て。猫だよ」
雪斗が指さす先、庭を黒猫が駆けていった。つんとこちらには見向きもしない。
「昔からここに泊まりに来たときは、色んな動物を見たなあ。猫も犬も、狸や鹿なんかもいたっけ。動物たちの通り道なんだろうね」
「じゃあ、突然住人が変わったら、びっくりさせちゃうかもしれませんね。あの猫は、我関せずだったけど」
「そうだね。ご挨拶しなきゃ。ご近所さんに配った引っ越し挨拶のお菓子、まだあったっけ」
この家の近くに、民家はない。一番近いご近所は麓の和菓子屋で、徒歩十五分かかった。
「動物にお菓子は駄目でしょう。砂糖とか、毒になっちゃうこともあるし。それよりほら、手を動かして」
穂乃花はべりべりと段ボールの封を解いていく。
中身はキッチン家電だ。
千代から「うちにあるものは、適当に使っていいですからね」と言われていたから、大きい家電は持ってきていない。段ボールに入っているのは、お気に入りのホットプレートに、コーヒーメーカー……。
台所の棚を開けて、「わあ」と声を上げた。大きな土鍋が鎮座している。六、七人分くらいの料理ができそうだ。もう何年も一人暮らしだったはずの千代が、この鍋を使っていたのだろうか。だとしたら胃袋モンスターだ。
「穂乃花さん、穂乃花さん」
「はいはい」
「口開けて」
言われた通りにすれば、なにかを放り込まれた。
さくっ、ほろっ。
口の中でクッキー生地がほどけて、アーモンドの香ばしさが広がる。粉砂糖がほんのり甘い。
「疲れたときは、甘いもの」
雪斗の手には、スノーボールクッキーが入れられた瓶が収まっている。白くて丸い雪みたいなクッキーは、昨日彼が作っていたものだろう。
たしかに美味しいのだが……、穂乃花はじっとりとした目で雪斗を見上げた。
「まだ、疲れるほど作業してないじゃないですか。雪斗さん、もう飽きてきたんですね」
「力仕事、苦手なんだ」
「文系男子め。……ま、いいか」
どうせ、急ぐ必要もない。
雪斗の仕事はパソコン一つあればできるものだし、締め切りには余裕があると言っていた。穂乃花も名古屋にいたころ勤めていた仕事は、有休をもらっている。引っ越し作業が落ち着いたら、家から遠隔で仕事復帰することになっていた。
パソコンさえ出してしまえば、家電は千代のものがあるのだし、なんとかなるだろう。
「のんびりいきましょうか」
そう言ったとき、視界の端に、ててて、となにかが横切る。
庭で見た、親指サイズの少女だった。通り過ぎたかと思えば、段ボールの隅に身をひそめて、こちらをちらっとうかがっている。
小さな身体に、小さな籠を背負って、これまた小さな赤い実を運んでいる最中らしい。ブルーベリーを赤くしたような実が籠にちょこんと乗っている。人形ごっこを見ている気分だ。
「雪斗さん、クッキーひとつ、ちょうだい」
穂乃花は段ボールから赤い豆皿を取り出した。そこに雪みたいなクッキーを乗せて、
「はい、どうぞ。親指姫さん」
差し出すと、びくっと少女が飛び上がった。
「ごめんね、驚かせて。今日から越してきた穂乃花といいます。こっちは雪斗さん。どうぞよろしくお願いします。クッキー、美味しいから食べてみて」
少女はおっかなびっくり穂乃花とクッキーを見比べる。「どうぞ」と促せば、小さな手がそろーっとクッキーに伸びて、一口頬張った。途端、表情が明るくなる。
「美味しいでしょ。雪斗さん手作りだよ」
こくりこくりと少女は頷いて、一気にクッキーを平らげた。礼儀正しく頭を下げると、空いた皿に持っていた赤い実をふたつ乗せ、てててと廊下の先に消えていく。
「……んー、視えない!」
ずっと黙っていた雪斗の口から、悩ましい声がもれた。眉を八の字にして、豆皿のあたりに目を凝らしているが、残念ながらもう少女はいない。
「雪斗さんのクッキー、気に入ったみたいですよ」
「ほんと? よかった。どんな子なの?」
「親指姫みたいな、小さい女の子でした。背丈がこれくらいしかないの。人形みたいでかわいい。――ここ、動物だけじゃなくて、いろんな子が通り道にしてるんですね」
「ああ、おばあちゃんが来るもの拒まずの性格だからね。色々集まるのかも」
そう言われて、千代の朗らかな笑顔を思い出す。なるほど。彼女が住んでいたのなら、こういう家にもなるだろう。
「おかしな隣人が、いっぱい」
部屋のすみで、また影が動いた。今度はマリモみたいな黒い影。
「雪斗さん。これ、親指ちゃんからお礼」
皿に乗せられた小さな実を一粒雪斗の手に乗せ、もう一粒を自分の口に入れる。ぷちっと弾けて、甘酸っぱい果汁があふれる。苺のような風味だったが酸味が強くて、「野原の味」という感じがした。
最初のコメントを投稿しよう!