あわてんぼう様に捧げる演舞

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 村人たちにとって、ツクヮサマは崇敬と畏怖の対象だった。  山神(やまつみ)の加護を人々にもたらし、人々の祈りと供物を山神に届ける、人に似て人ではない山神の使い。山に棲む鳥や獣を従え、草木を生み出し育む力を持つ。  山中の奥深くに暮らし、人前に姿を現すことは滅多にないが、ツクヮ舞の夜には決まって村へ降りてくる。山神はツクヮサマの目を通して、人の捧げる舞を眺め愉しむのだと言われていた。  ツクヮ舞を木彫りの面越しに見つめるツクヮサマの姿を、ヤアは幼い頃から何度も見てきた。ツクヮサマはほとんど言葉を話さず、古木のように伸びた背丈や、傍らに従えた強靭な体躯の鳥たちも相まって、粛然として近寄りがたい威光を放っていた。 「祭りは明日か。迂闊だったわ、間違えるなんて」  威光のの字もない軽やかな調子で眼前のツクヮサマが言った。舞台の端に腰掛け、悔しげに眉根を寄せながら、喉から赤い実をしきりに飛ばして鳥たちの歓声を浴びている。 「(はや)って動くとこういう失敗があるからいやね。あ、他の人には内緒にしてちょうだいね。慌て者のツクヮと思われたくないから」 「は、はい」 「……あなた今、『実際慌て者のくせに』と思ったでしょう」 「い、いえっ、決してそのようなっ」  ヤアが猛然と首を左右に振ると、ツクヮサマは「本当かしら」と笑い声をこぼした。  ツクヮサマは時節が来ると土地をお替わりになる。以前村長に聞かされた話をヤアは思い出した。村長が子供だった頃は、背丈の倍ほどもある髪を(ほうき)のように逆立たせたツクヮサマが村に訪れていたらしい。  それにしても随分な違いようではあった。記憶に染みついた厳粛なツクヮサマと、軽口を叩いて笑う目の前のツクヮサマが、いずれも同じくツクヮサマ。戸惑うヤアの頭の中を、二人のツクヮサマが縦横無尽にぴょこぴょこと跳ね回っていた。 「ねえ、あなた舞手よね」  実物のツクヮサマもぴょこんと跳ね、舞台から地面へ降り立った。 「ツクヮ舞、今からやりましょうか」 「はい……えっ?」  反射的に頷きかけて、ヤアは体を強張らせた。 「折角ここまで来たのだし、用事を済ませてしまいたいの」 「あの、他の祭事もありますから、明日でないと……」 「大丈夫よ。ツクヮ舞の他は山神様と関係ないから」  ツクヮサマは何でもないような調子で言った。  ぱくぱくと口を開閉させた後、ヤアは「えーっ」と目を白黒させた。ツクヮサマは悪戯が上手くいったかのようにくっくと息を弾ませた。 「時を経て儀式が伝えられていくうちに、人々が少しずつ付け加えていったのよ。山神様を喜ばせようとしたのか、自分たちが楽しむためだったのかは知らないけどね。……あ、他の人に言ってはだめよ。ツクヮはなるべく人の営みに干渉してはいけないの」  驚かせたくて教えてしまった、とツクヮサマは気まずそうに首の裏を撫でた。周囲の鳥たちから咎めるような鋭い声が発せられたが、ツクヮサマが喉から赤い実をばらまくと即座に喝采へ変わった。 「まあともかく。舞手とツクヮさえいればツクヮ舞は成立するというわけ」 「でも、明日の舞は急にやめられません」 「半分ずつ分けるのよ。今日と明日で」  ヤアが折った杖を舞台から取り、ツクヮサマは「この杖みたいにね」とからかうように言った。頬に熱を感じながら、ヤアは「どういうことですか」とぶっきらぼうに尋ねた。 「ツクヮはね、ツクヮ舞をぼうっと眺めているわけではないの。自分の身を山神様と結びつけて、見えるもの、聞こえるもの、舞から感じ取るあらゆるものを、余さずお伝えする役目があるから。集中は乱せないし、体は消耗するし、面は汗を吸ってふやけるし、けっこう大仕事なのよ」  ツクヮサマはやれやれというように首を振った。 「祭りとなれば人も集まる。ツクヮとしてそれなりの振る舞いをしなくてはいけないから、余計に疲れるのよね。くたびれて寝転びたくても、体面を考えるとやりづらいし。まあどうしても寝たくなったら寝るけど」 「ね、寝ないでください」 「疲れる本題を先に片づけておけば、祭りの日には寝ないで済むと思わない?」  話の向かう先が薄っすらと見え始め、ヤアはごくと唾を飲み込んだ。 「今から山神様に捧げるためのツクヮ舞を行う。大仕事には変わりないけど、人目を気にしないでいいし、終わった後すぐに休める。そして明日の祭りでは、形だけのツクヮ舞を気楽に行えばいい」  ツクヮサマは手に持った杖でヤアを指し、「あなたにとっても嬉しいはずよ」と付け加えた。 「儀式の成否と大勢の視線、両方を気にしながら舞をこなすなんて大変でしょう? 特にあなたって粗忽そうだし、肝も小さそうだし」 「そっ、そんなことありません。沢山練習もしてきたし、大丈夫です」 「あら、頼もしいことね。それなら諦めて今日は帰りましょう。明日、私や村人たちの前で、素晴らしい舞を見せてくれると期待しているわ」 「……ごめんなさい。大丈夫じゃありません」  ヤアがしょんぼりと肩を落とすと、ツクヮサマは「素直でけっこう」とくすくす笑った。 「私、苦手なんです、踊りなんて。なのに舞手に選ばれて、練習したけど下手なままで、でも大事な儀式だから失敗できないし、みんなは期待してるって言うし、不安と緊張ばっかり膨らんで、ふぐっ、むぐ、うぐぐう」  ぼろぼろと頬を伝う涙を、柔らかな感触がそっと拭った。ツクヮサマの喉から伸びた蔓だった。表面の細かい毛はくすぐったいが、寄り添うように涙をすくう仕草に、心を落ち着けてくれる優しさがあった。  やがて蔓はさらさらと崩れ、頬を白い(つぼみ)が滑っていった。肩に落ちた蕾を摘まむと、眼前で小さな花が開いた。愛らしいその姿を瞳に映し、ヤアはふわりと微笑みを浮かべた。  数瞬経って強烈に酸っぱい香りが漂い、ヤアはぎゃああと叫びながら花を鼻から離した。 「それ、気付けに使われる花なの。元気出たかしら?」 「おかしな慰め方しないでくださいっ」 「おかしくたっていいのよ」  面白がるように弾み、それでいて慈しむような響きをまとった、入り組んだ声音でツクヮサマは言った。 「下手でいいし、失敗していい。私も、鳥たちも、そして山神様も、細かいことは気にしない(たち)だもの。ここに恐れるものはないのよ」  ツクヮサマは杖をヤアに差し出した。折れた箇所を樹液のようなものが包み、固まって一本に繋ぎ合わせていた。 「あなたの舞を見せて」  ヤアはおずおずと手を伸ばし、杖を受け取った。繋ぎ方が大雑把で、杖は妙な方向に少々曲がっていた。不思議とそれが心を緩めて、ヤアはふふっと笑いの吐息をこぼした。
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