第5話 定時は9時から17時まで

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第5話 定時は9時から17時まで

 長い1日だった。僕の平々凡々とした、薄っぺらい日常の中で最も濃い時間だったと思う。  帰りのバスに揺られていると、車窓からは暮れゆく街並みが見えた。時刻は18時前。ついつい口から漏れたゲップはかすかに酒の臭いがして、自分でも酔っているのが分かる。 「本当に働かない人達だなぁ」  全ては歓迎会のせいだ。スタートはなんと13時から。モーリアスさんが『新人の為に酒盛りしようじゃないか』だなんて言い出して、魔王様が許可したので、真っ昼間から宴が開かれてしまった。歓迎会には知らない顔も並んでいたけど、誰1人として酒盛りに反発せず、むしろ歓声とともに受け入れた。 「美味しかったから良いけどさ」  振る舞われたのは魔ビールだなんていう地酒だ。別に何のことはない、ビール党なら喜んで飲み干すだろう、ほろ苦くてスッキリとした味わいの酒だ。つまみにはワサビで和えたクラーケンの切り身、鉄板焼のケルピーに、グリフォンの軟骨揚げが並べられた。  珍味かと聞かれれば答えはノー。珍しいのは素材くらいで、味わいは居酒屋を思い出させる庶民派だったので、舌先が適応するのは簡単だった。それらを皆は頬を綻ばせて食べるのだ。  本当に、無邪気な子供みたいに、純真そうに。 「怖いのは見た目だけ、なのかな……」  魔王様は、ボウルみたいなお椀に満たした酒を一気に呷って高笑い。途中でモーリアスさんと腕をクロスさせて飲んでたっけ。アネッサさんは魔法で宴会芸に勤しんでたし、初対面のドリアンナさんは、水と炒り豆を無心になって食べていた。  そしてエレンさん。自分が食べるのを楽しみつつも、僕への気遣いを決して忘れなかった。 ――マジマくん、苦手な食べ物ってある? ――この軟骨揚げが美味しいのよね、食べてみてよ。  いつもより砕けた態度、笑顔、距離感。それらを思い返しては、僕の挙動に不審な点は無かったかと気がかりになる。視線は、返答はおかしくなかったか。何度も何度も繰り返し思い浮かべた結果、最後は温かな気持ちだけが残された。  「間もなくぅ終点です。お忘れ物のないようお気をつけください」  どこか気だるげで、それでいてリズムの良いコールが聞こえる。レスポンスはバスからの下車。そこから電車を乗り継ぐと、見慣れた光景まで辿り着き、安堵感を覚えた。  木造アパートの105号。自分の部屋までやってくると、手洗いもそこそこに座り込んでしまった。腹の奥にジットリとした疲れを感じる。 「まぁ、初日の仕事は気疲れするもんだよね」  このままベッドに潜り込んで寝てしまおうか。四つん這いでノソノソと這い寄っていると、バイブ音が聞こえてきた。スマホの着信だ。居留守を使いたい所だけど、画面に『母上様』と出たので観念した。 「はい、何の用?」 「テツシけ? 何の用じゃねーべよ。連絡も寄越さねぇで心配したべ! 先月にバイトがクビになったーーつってから音沙汰ねかったべ!」 「ゴメンゴメン。色々と立て込んでてさ」 「アンタ、そんな疲れた声出して。まるで悪魔と契約して無理やり働かされたみたいじゃねぇべか」  なんて鋭い事を言うんだ。この勘の良さには昔から驚かされたもんだ。 「仕事は大丈夫だよ。新しい所に雇われてさ、今日が初出社だったんだ」 「随分早く決まったんだなぁ。てっきり面接三昧かと思ったべよ」 「今回は当たりの職場っぽいよ。先輩は優しいし」 「んな事言って。前もキレイなネーチャンに釣られて、実はブラック企業だったーーって泣きついてきたべ」 「あの時は、ちょっとアテが外れたんだよ。今回はきっと大丈夫!」 「本当け? 怪しい奴らに騙されてんでねぇの?」  何故だろう。今の言葉にはカチンとスイッチが入ってしまった。 「そんな事無いよ。手取り足取り教えてもらえるし、ペットの犬とかいて、すごく賑やかなんだ!」  まぁ、うかうかしてるとガッツリ噛まれるけど。 「仕事環境も緩やかだし、きついノルマとか無いし!」  歓迎会とはいえ、昼間っから酒を飲んじゃう職場だ。特にモーリアスさんは、寝るか飲むかの1日だった。 「しかもさ、結構大事なポジションをくれたよ。人事に絡んでるから相当重要なやつなんだ!」  魔王軍の人事官だなんて、何をどこまでやらされるか分からないけど。 「という訳だから、もう心配しないで!」 「1日しか働いてねぇのに、随分な入れ込みようだなぁ」 「いや、別に肩を持つとかじゃないけど……」 「まぁ良いべ。子供っつうのは、いつの日か巣立っていくもんだ。親としちゃ寂しいけどよ、田舎から見守る事にすんべ」 「母さん……」 「そん代わり、大変な目に遭ったらスグ教えるんだど? 母ちゃんが社長の顔ひっぱたいてでも助けてやっから」  それは止めたほうが良い。下手すると一族まとめて殺されかねない。 「そんじゃ身体に気ぃつけて、しっかり働いてきな」 「うん、分かったよ」 「飯もちゃんと食えな。お菓子ばっか食うんじゃねぇど」 「分かってる」 「それから上手い話にゃ気を付けんべよ。悪い奴らってのは田舎もんと見りゃ、すぅぐ悪巧みを……」 「うん分かってるよ、それじゃあね」  強引に電話を切った。母さんはあそこから30分は話し込んだりするから、これくらいが丁度良い。 「なんでだろ。怒るつもりなんか無かったのにな……」  どうして会話中にスイッチが入ったのか、自分でも驚くくらい強い語気だった。その出処が何なのかは自分にすら分からない。  ふと気になって右腕を見てみる。破けた袖からは、今日の出来事が思い返された。 「エレンさん。どうしてあんな真似を……?」  彼女の胸元が脳裏によぎる。すると右手は、まるで火の玉でも転がったような熱を帯び、激しくうずいた。  独身の一人暮らし、夜更け、うずく右手。こう来たらやるべき事はひとつしか無い。 「よし。今日はブッ倒れるまで頑張るぞ!」  スマホを握り直して態勢を整えると、滑らかに画面を操作した。起動させたのはテキストエディタ。構想中の小説を書ける所まで進めてやるんだ。  1時間、2時間と過ぎていく中、指先は疲労感を帯び始めた。それでも手のひらに、そして胸の奥に宿る熱意には陰りが無い。今夜は長くなりそうだ。指で激しく操作を続けながら、そんな事を考えていた。  そして迎えた翌朝。寝不足気味でも目覚まし通りにキッチリ起床。手早く準備を済ませ、昨日と同じ電車に揺られて出勤していった。 「フフフ、完璧だ。皆は遅れてくるらしいけど、僕はちゃんと時間通りだぞ」  これが果たして、色香に釣られた男の勤務態度だろうか。否、違うね。僕は強烈なまでのやりがいと期待を感じ、高い職業意識とプライドから働くんだ。 「だから違うんだ。おっぱいとか、そんな好きじゃないし……」  バスの乗車中にそんな呟きを漏らしてしまった。車内が空いてた事は幸いだったと思う。 「エレンさん、おはようございます!」  玄関の内鍵を外す姿が見えたので挨拶した。ことさら大きく、爽やかな感じで。 「あらおはよう。今日も早いのね」 「これくらい普通ですって! それよりもバシバシ仕事をやりますよ、期待しててくださいね!」 「ふふっ。頼もしいわね」  約束の握りこぶしを見せつけていると、額にペシリとぶつかる物があった。虫か何かが飛んできたのか。廊下を転がる何かを追ってみる。 「何だこれ、ボタン?」 「ごめんねマジマくん。ちょっとサイズがキツかったみたい」 「サイズって……ッ!?」  エレンさんは胸元を掌で隠しつつ、照れ笑いを浮かべていた。その指の隙間には、谷と呼ぶには深すぎる狭間がある。そして、開いてしまったブラウスの向こうには、出してはいけない魅惑的な布の端が見え隠れしていた。  唐突過ぎる絶景だ。僕は目眩を覚えると同時に、あらゆる言葉を失ってしまった。 「ちょっと縫ってくるから、ボタン返して貰える?」  無言で手渡し、無言で彼女の背中を見送る。そして呆然と立ち尽くしていると、耳障りなネズミの声を聞いた。9時を報せる合図。それを耳にした今も、夢心地の世界から戻る事は難しかった。  だが、それでも思う。僕は決して美女に釣られたのではないと、もっと高尚な何かの為に汗水垂らしているのだと。そう信じたかった。  だってホラ。僕の胸の中では、破裂しそうな程の激情が膨れ上がってるんだから。仕事への情熱と思われるそれが。
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