開戦前夜

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 街灯が時折、明滅している。  その下を行き交う人々はまばらだ。皆帰宅を急いでいるのか、足早に通りすぎていく。  通りに貼られた、「よき夫、よき妻、よき子たれ」「素晴らしき国家は素晴らしき社会人に支えられる」「不要の釘、調理具、金属類求む」といったポスターの数々も、一瞬見やるだけですぐ前方に視線を戻す。  街灯のすぐそばに立っている男には目もくれない。  あるいは、無視しているのではなく、遠慮して関わらないようにしているのか。  コートを着た男の右腕には赤い腕章がはめられていた。いまやこの街において、その腕章を付けた人物は、それが誰であれ、市民から尊敬と畏怖の念を抱かれていた。  ただし、男は前任者と違い、形の上だけでも真面目に振る舞おうという意識を持ち合わせていないようだった。  過ぎ去る人々をいちいち確認するでもなく、興味なさげにポスターをぼんやり眺めている。  男は時計の長針が半周する間そうしていたが、不意に、目の前を過ぎようとするひとりにようやく目を向けた。  おつかいを頼まれたらしき少女が、大きめの袋を抱えて歩いている。やや色褪せた黒を基調とした質素な服装で、慎ましく暮らしているのがわかる。よろけてはいないが、視界が袋で塞がり、ぎりぎり前が見えるかどうかという状態だった。  男はおもむろに少女の元へ歩み寄り、口を開いた。 「そこのお嬢さん」  声をかけた瞬間、少女が袋を取り落とした。地面に転がった袋の口からパンが少し顔を覗かせる。袋が落ちた拍子に、メモらしき紙片がひらりと地に落ちた。 「おいおい、大丈夫かい」  そう言いながら落ちた袋を拾おうとするが、男が手伝う間もなく、少女は自分ですばやく拾い上げ、男に非難の目を向けてみせた。  男が声をかけたとき少女の目には恐怖の色があったが、それを一瞬で押し込めるあたり、大したものだと男は感心した。 「びっくりしたわ。いきなり声をかけてくるんだもの」 「いや、驚かせるつもりはなかったんだ。すまない」 「いえ、大丈夫。パンも無事だったし。……憲兵さんが、私に何かご用?」  少女が、男の腕章を見ながらいった。 「憲兵じゃあないんだが」 「似たようなものでしょう」 「まあな」  双方の口調は決して刺々しいものではなかったが、その間には当事者にしかわからない、ぴんと張られた細い糸のような緊張感が漂っていた。  男はそれに気がつかないふりをして、言葉を続けた。 「別に大したことじゃない。大変そうだから荷物を持つのを手伝おうか、って言おうとしたんだ」 「ありがたいけど大丈夫です。自分で運べるから」 「そうか、ならいいが。それと」 「それと?」 「犬に気をつけろ」 「犬?」 「ああ。最近の犬はたちが悪くてな。群れになって、何の非もない哀れなネズミを襲うんだ」 「ネズミ? 犬がネズミを襲うの? 意味がわからないわ。それに、憲兵さんも知ってると思うけど、そもそもこの街に群れるほど野良犬はいないでしょう」  脈絡のない話に、少女は流石に困惑したようだった。 「それに、私と全然関係ないわ。私、犬は飼ってないの。好きじゃないし」 「俺は好きだし、昔飼ってたぞ。とにかくいい奴で、いや、それはともかく、君にも関係ある話だ。もう一つ付け加えると、『たちの悪い犬』は四つ足じゃない」  少女は一瞬黙り込んでその意味を考えた。 「きっと何かの比喩ね」 「ああそうだ。君は賢いな」 「それはどうも。憲兵さんがどうしてその話をいまここで私にしたのかわからないけど、心にとめておくわ」 「そうするといい」  少女はうなずいた。 「それじゃあ」 「ああそうだ」  少女が背を向けようとした時、男は思い出したように声を上げた。 「何?」 「最近つけるべき腕章をつけていない奴らがいるらしいんだ」  その言葉を聞いて、少女がかすかに顔をこわばらせた。 「もしそいつらを見かけたら、俺たちに教えてくれ。知っていると思うが、腕章の色は黒だ」 「教えたら、その人たちはどうなるの?」 「君は知らなくていいことだ」 「そう。もし見かけたら、ちゃんと教えると約束するわ」 「ああ、頼む。それから」 「まだあるの?」  少女はやや苛立っているようにみえた。しかし男は、その苛立ちが本心をおおう隠れ蓑であるように感じた。 「君の荷物を少し改めさせてくれないか」  少女はしばらく答えなかった。  いつの間にか、通りには男と少女の他に誰もいなくなっていた。 「私が、腕章を隠し持っているとでも思っているの?」 「疑っているわけじゃない。ただ、これが仕事なんだ」 「荷物を見せろっていう時点で、疑ってるじゃない」  そういって、少女は悔しそうに男を睨んだ。 「言っておくけど、こうして話しているのはあなたが自警団の人だからで、もし普通のおじさんだったら怒って帰っているところよ」 「なぜだ?」 「だって、あんなずる賢い人たちと一緒にされるなんて。おじさんが私の立場でも、許せないでしょう?」  その口調や表情に、焦りや怯えは見られない。「地下を這う小動物の如く卑しい者と勘違いされることに憤慨する善良な小市民」の姿がそこにある。男は、少女の完璧な擬態に感動すら覚えた。 「あいつらは人じゃないけどな。人のなりをした、ずる賢い獣だ」 「ええ、そうね。動物以下だわ」  男が挑発してみても、少女は平然と返す。  やはり彼女は聡明だ、と男は思った。自分とは大違いだ、とも。  あの時の自分に、彼女のような賢さがひとかけらだけでもあったらーーー。  友を、二人も失うことはなかっただろうか。  男の心のうちをよそに、少女は反撃に出た。 「おじさんこそ、何か隠しているんじゃないの?」 「何をいうんだ」 「じゃあ、コートのポケットに隠してるのは? 小物が入ってるにしてはふくらみすぎよ」 「目ざといな」 「そうでもないわ」 「別にやましいものじゃない」 「やましくないなら見せてくれたっていいじゃない」 「それは君にだっていえるだろう」 「私は、ばかにされるのが嫌なだけで見せるのは構わないわ。やましいことなんてないから。それにひきかえおじさんは」 「わかった、わかった」  食い下がる少女に、男は白旗を上げた。  コートのポケットに手を突っ込む。 「飴だよ」 「飴?」  ポケットから取り出されたのは、白い包み紙だった。  なおも疑わしそうな顔をする少女に、男は包み紙を解いてみせた。 「意外。煙草じゃないのね」少女は言葉通り意外だという顔をした。  男がみせた包み紙の上には、半透明の粒がいくつか転がっていた。街灯の灯りを反射して、ほのかに光ってみえる。 「食べるか?」 「え? ええと、いまはお腹が空いてないからいらないわ」  少女の視線に警戒が混じる。  脅すつもりもなかったので、男は粒のひとつを手にとって自分の口に放り込んだ。 「普通のハッカだ。うまくもないが不味くもない」  飴は煙草と比べれば高価ではないが、いまのご時世、少女にとっては滅多に食べられない代物だろう。  一瞬迷う素振りをみせたあと、少女は包み紙に手を伸ばした。  まだ華奢で小さい指が飴玉をひとつつまみ上げ、街灯の灯りにかざした。  飴玉と街灯を映した少女のかがやく瞳に、男はなぜか懐かしさを覚えた。 「綺麗。おじさんもそう思わない?」 「いや。君には綺麗に見えるんだな」 「ええ」   手に取ったはいいものの、少女は飴をなかなか食べようとしない。男が訝しげに思って声をかけようとしたとき、少女が口を開いた。 「もう一つもらってもいい?」 「構わないが」 「小さい弟がいるの」 「ああ、なるほど」 「図々しいと思うかもしれないけど」 「いや思わないさ」  そういってから、男は飴を包み紙ごと無造作に差し出した。 「そういうことなら全部持って帰りなさい」 「えっ、本当! でもおじさんの分がなくなるわ」  少女の目は男の手の上に釘付けだったが、まだ遠慮しているようだ。 「もともと妻が勝手にポケットに入れたものなんだ。俺はあまり食べないし、小さな子供にあげたところで妻が怒るはずもない」  そういわれたことで遠慮がなくなったらしい。じゃあいただきますといって、少女は包み紙を受け取り持っていた袋の中に丁寧に入れた。 「代わりと言ってはなんだが、教えて欲しいことがある」 「なあに?」 「最近の子供はどんなおもちゃが好きなのか教えて欲しいんだ」 「おもちゃ?」  男にはもうすぐ誕生日を迎える幼い息子がいる。小さい弟がいる少女に聞くのが一番よいと思っての質問だった。  男が飴をすべて渡したのが功を奏したらしい。少女は、小さい子に人気の物から、いま流行っている遊びにいたるまで懇切丁寧に教え、男と一緒にプレゼントの候補を考えてくれた。 「……ぬいぐるみもいいけど、男の子なら、戦車とか飛行機の模型を贈ればとっても喜ぶと思うわ。うちじゃ買えないけど、おじさんなら大丈夫でしょう?」 「まあ、そうだな」 「あとは、兵隊ごっこができる子供用の制服とか。おもちゃの銃もいいかも」 「なるほど」  男は、自分が子供のころとは様相の異なるラインナップに、迫りつつある現実を実感しながらうなずいた。 「役に立つかしら。私が思い当たるのはそれくらいなんだけど」 「いや、とても参考になった。これで息子に喜んでもらえそうだ。ありがとう」 「どういたしまして」  そこでふと男があたりを見回すと、いつの間にかかなり暗くなっていた。いまは自警団があちこちを仕切りに見張っているため、この街の治安はそれほど悪くない。だが、少女にとっては歩くのにやや心細い時間だろう。 「もうこんな時間か。引き止めてすまなかった。家までちゃんと帰れるか?」 「ちゃんと帰れるわ。道は覚えているし、地図も、いえ、とにかく道をちゃんと覚えているもの」 「そうか。さすがだ」 「私を子供扱いしてるのね。失礼しちゃう」  心底不満そうにいう少女に、男は思わず苦笑した。 「別に子供扱いなんかしてないさ」  君はかつての俺よりもずっと大人だ、と続けて小さくつぶやいた声は少女には届かなかった。 「おじさん、飴、ありがとう」 「ああ。気をつけてな」 「ええ。……本当にありがとう」  少女がはにかみながら礼をいい、踵を返す。今度こそ、少女の姿は通りの向こうへ消えていった。  その後ろ姿を見送ってから、男は少女の荷物を調べ忘れたことに気がついたが、すぐにどうでも良くなった。  もともと本気で調べようとしていたわけではなかったし、気になるものを見つけたからだ。  少し離れたところに紙片が落ちている。袋を取り落とした際に一緒に落ちたことに、少女は気がつかなかったらしい。  男が紙片を拾い上げる。紙片は少し湿っていた。男は、ラジオで今夜は雨が降るだろうと伝えられていたことを思い出した。  紙片の表には何も書かれておらず、男は紙片を裏返した。  そこには、いくつかの幾何学模様と意味不明な文字の羅列があった。  それは暗号地図だった。おそらくは、少女とその家族がひっそりと暮らす場所へ辿り着くための。  他の者に拾われなくてよかった、と男は安堵した。と同時に、懐かしさがこみ上げた。  男も昔、暗号地図を使っていた。まだあの少女と同じくらいの年だった頃だ。  ただし、男が匿っていたのは、家族ではなく犬だった。  垂れ耳で希望をたたえた目をしていて、大きかった。  彼と一緒にいたのは一年にも満たない期間で、別れは突然だった。だが、その短い交流は今となっても、男にとって苦くもかけがえのない記憶として思い出された。  男は思い出に浸りながら、懐からライターを取り出し、数回押して点火したあと、紙片に火をつけた。  火は少し時間をかけて燃え広がり、小さくなっていった紙片は男の手から地面に落ちて、やがて灰になった。 ***  当番を終えて男が自警団の拠点に戻ると、リーダーに呼び出された。  本人に代わって迎えに来た伝言役の団員はやや口が軽く、リーダーのもとへ案内している最中も男に話しかけてきた。「警察犬の如き忠誠心」をたたえられる自警団の団員も、その評判通りの人間ばかりではない。  口の軽い団員は、姪の誕生日に欲しがっていた人形を贈れなかったとぼやいた。 「仕方がないさ。誰にだって自分の生活がある」  男はいった。  いまや玩具や嗜好物はかなりの高級品だった。 「まあそうなんだが。安いとろくなものも買えなくて困る。……巡回役はいいよなあ、俺の倍ぐらい手当があるだろう」 「どうだろうな。担当地区によるんじゃないか」 「そういうものか。まあ、どこの担当だろうが、俺みたいな下っ端よりはずっとましだろうよ。あんたの前任は本当にもったいないことをしたなあ。あいつにも家族がいたろうに」  白々しい、と男は思った。前任者を密告したのは、他ならぬこの団員だった。  それから、リーダーの部屋に着くまで、ふたりは黙っていた。  部屋の前まで来ると、男は二、三の言葉を交わしたあと団員と別れ、目の前のドアをノックした。 「入ってくれ」  よく響く声が中からきこえ、男は部屋に足を踏み入れた。  部屋は比較的広く、つくりの良いソファに、組織の長らしい貫禄の男が煙草をくわえながら座していた。  軽く挨拶を交わしたあと、リーダーが男をねぎらった。 「夜の見張り、ご苦労だった」 「いや、それほどでは。リーダー、あなたの采配と仲間のおかげだ」 「ああ、他の仲間も含めよく頑張ってくれた。何か変わったことはあったか」 「何も」 「そうか」  そういって、リーダーの男は、目の前に立つ夜番帰りのくたびれた男をじっと見つめた。 「何もなくて何よりだ。今度こそ安心して任せられそうだな」 「あなたに信頼されて、光栄だ」  熱のこもらない言葉に、リーダーの男は形式的にうなずき返した。 「頼もしい。ーーー今日は、伝えるべきことと聞くべきことがあって君を呼んだ」 「聞くべきこと?」 「気になるなら、そちらからにしよう。二つある」  前置きしてから、男はいった。 「一つ目は、ネズミの居場所の心あたりについてだ。許可を得ずに住み着いた挙句、所定の黒い腕章を付けずに出歩いている一家が君の担当地区にいるらしいが、見かけたことはあるか?」 「いや、それらしい輩は残念ながら」  男は、少女の顔を思い浮かべながら答えた。 「そうか。まあ自警団にいる以上、摘発された奴らをこれだけ見ていれば、外見だけでも我々との違いはわかるからな。見かけたら遅滞なく報告してくれ」 「了解」  男は素知らぬ顔でうなずいた。 「二つ目は聞きにくいことなんだが」  リーダーの男は煙をはき出しながらいった。 「君は迂遠なもの言いを好まなかったな」 「ええ、あまり」 「では単刀直入に聞こう。君が、現在も前任者と友好関係にあるのではないかということについてだ」 「ありえない」  上司からかけられた疑念を、男はすぐさま否定した。 「断じてありえない。あいつは自警団を裏切った」 「そうか? 君はあの男と仲が良かったじゃないか。あの男に影響を受けてネズミどもと通じーーー」 「いくらあなたでも、言っていいことと悪いことがある」  男が珍しく他人の言葉を遮った。 「俺には、家族がいる。そしてあいつほどばかじゃない」  男には、強気で言葉を発するいまの自分が、あの少女と重なってみえた。  リーダーの男は一瞬黙ったあと、口調を和らげた。 「まあ、そうだな。君はよき社会人であり、よき夫だ。友人だったとはいえ、あの男とは全く違う。疑ってすまなかった」 「いや、疑いを持つのは自然なことだ。こちらも言いすぎた。リーダー、許してくれ」 「許すも何も、こちらが謝っているんだ。この話はこれで終わりにしよう」 「了解。ーーーそれで、伝えるべきことというのは?」 「ああ、そうだった。自警団の今後についてだ」  リーダーの男はひと呼吸置いてから話し始めた。 「他の仲間にも知らせたが、近く、憲兵団に業務を返却する。それ以降は、市から半年間、現物と報奨金が支給されるので心配は無用だ。一気に返却するわけではないが、頭に入れておいてくれ」 「了解。理由を聞いても?」  知り合いの伝手で聞いただけで推測の域を出ないが、と前置きした上で彼は答えた。 「我らが偉大な祖国は悪しき敵諸国に宣戦布告するだろう。早ければ、明日にも。今回のことは、総力戦に向けた現行体制見直しの最終段階だ」 「……それはまた、随分、急な」 「急でもない。君も含め、皆薄々わかってはいただろう。ただし、くれぐれも自警団内部にとどめてくれ」 「了解」 「よろしい。用事はこれで済んだからもう帰っていいぞ。これからもよろしく頼む」  男には、本当に自分がリーダーの信頼を得ているかわからなかった。だが、ぼろを出すことは避けなければならないと、余計なことは口にしないと決めていた。  男が部屋を出る間際、リーダーの男がつぶやいた。 「あの男は、真面目すぎて嘘がつけなかった。自分自身にも。覚悟を決めたなら、内心はどうあれ忠犬の役を演じきるべきだった。許されることではないが」  男は何も答えず、その場を辞した。  建物の中を歩いている途中、ふと飴をやった時の少女の瞳と自分の記憶の共通点に気がついた。  彼女の瞳は、男が匿っていた犬のそれにそっくりだった。傷つき秘密を隠しながらも、希望をたたえた瞳。  しかし、友人に等しかったあの犬の目のかがやきは、男が奪った。厳密には男が奪ったのではないが、男はそう思っていた。  その犬は、人を噛んだとして大人が探し回っていた「狂犬」だった。  だが、少年だった男はその犬が優しく穏やかであると知っていた。男と犬は友人同士であり、傷つけあうことなど一度もなかった。  暗号地図まで作って匿ったのは、いうまでもなく彼を守りたかったからだ。  だが、男は失敗した。あの少女と違い、大人のかまかけにあっさりと引っかかり、犬の居場所を隠し通せなかった。  少女の家族もいずれはーーー。  否、きっと、あの少女ならうまくやる。  男は自分にいいきかせて、不穏な考えを振り払った。 ***  自警団は市の全面的な支援を受けているおかげで、教会を敷地ごと借り上げて拠点としている。男はリーダーの部屋を出たあと、出口に近い礼拝堂に足を運んだ。  かつて信徒が集っていた礼拝堂には、他の団員たちが煙草をふかしながら談笑していた。 「とうとう始まるのか」 「ああ。業務が憲兵にわたったら、この煙草も手に入らないな」 「いや、現物支給でくれるんじゃないのか」 「半年だけだろう」 「それより聞けよ、あのXX人め、俺のコートの裾を汚しやがった」 「おう、それは赤い腕章にかけて許せねえな」 「それで、俺はこう懲らしめてやったわけだ。まずあの憎たらしい左腕の黒い腕章を掴みあげて……」  今後のことや武勇伝で盛り上がる仲間を遠ざけるようにして、男は礼拝堂を出た。付けていた腕章を乱暴に取り、懐に無造作に突っ込んだ。  外は、まだ雨が降っていない。  男が匿っていた犬は、雨の日に殺処分された。いまでも、男は雨の日が好きではない。  男は無意識に、懐から煙草を取り出した。  だが、煙草を吸っていたリーダーや自警団の仲間達の姿を思い出し、煙草を懐に戻した。  やりどころのない腕をコートのポケットに突っ込んだとき、何かが指に当たった。  ポケットから出した手の上にあったのは、飴玉だった。ひとつだけ包み紙から転がり出ていたらしい。  男はしばらくその飴玉を見つめてから、口に放り込んだ。  飴玉を口の中で転がしながら、とうとう自分はよき社会人にもよき夫にもなれなかった、とぼんやり思った。  よき妻、待遇の良い職場、そして国家。それらを裏切ったならば、もはやよき隣人という称号以外に望みはないが、それすらも自分にふさわしくないと男は考えた。   自警団に入っている時点で、隣人を迫害し追い詰めているのだ。飴玉をやったぐらいは何の足しにもならない。  家に帰れば無邪気な息子の寝顔を見られるだろうと思いつつ、男は少女に弟がいることを思い出した。  いつの日か、息子と少女の弟がよき隣人同士となれればいい。  空襲を告げるサイレンの幻聴をききながら、希望を持ってというよりも、静かに祈るような気持ちで男は願った。
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