2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
夕焼け燃える空に投身自殺を考えるほどに、村瀬は追い詰められていた。
先月異動してきた権藤課長のスパルタな営業方針に、身も心もズタボロになっていたのだ。「鬼の権藤」の二つ名を持つ敏腕課長として名を馳せ、数々の成績不振部署をV字回復させてきた生ける伝説だ。四十歳代半ばを過ぎた今でも課長止まりなのは、部下の直接指導にサディスティックな快楽を求めて、昇進命令を断り続けているからとも囁かれている。
村瀬は鬼の権藤の標的にされ、残業早朝出勤は当たり前、時間外であろうと電話は三コール以内に取らなければ罵声を浴びせられた。商機はどこに転がっているか分からない、戦国武将が戦場で呑気に酒を飲んで寛いでいたかと威嚇され、戦国武将も戦場で酒くらい飲んでいたのではないかと思ったが、それを口にするのは屋上からダイブするよりも恐ろしかった。
見慣れた景色は見えているようで見えていない。脳が情報処理の負担軽減のためにスルーしてしまう。その反面普段と異なる光景には引っかかりを感じさせ、意識しなくとも目に付くものだ。
その看板は帰宅の道中、心身共に疲れ果てた村瀬の目に自ら飛び込んできた。
「SPA☆石井」
いつの間にできたのか、メインストリートから外れた寂れた抜け道には違和感大ありの派手な看板だ。こんなところにスパなぞ作って、果たして客が来るのだろうか。よほどの素人経営者か、はたまた天才的な手腕の持ち主なのか。村瀬は経営者の人となりに興味を……。
ダメだダメだ。オンオフをしっかり切り替えるようにと、産業医にも言われたところではないか。夢まで仕事に侵される状態で、どうすれば仕事を忘れて頭を空っぽにできるのか分からなかった。しかし気持ちをリフレッシュしなければ早晩潰れてしまうのは確実だ。その思いがなおさら焦燥を煽る。
村瀬は頭を振って、しかしスパならリフレッシュにもってこいだろうと、入り口の分厚い木製の開き戸を引いた。
「いらっしゃいませ~」
ムッとする重厚な空気が鼻を衝く。さまざまな草木、動物、鉱物が入り混じった匂いだ。
「お一人さまですか。こちらどうぞ~」
赤いターバンを巻いたエスニックな顔立ちの店員が、妙に語尾の上がった外国訛りの言葉で奥に歩いていった。店内には数卓のテーブル席と五六人が座れるカウンターがある。アクリル板で区切られた客席は八割方埋まっていて、銘々に黙って何かを食べている。
「なんだここは。スパじゃないのか? まるで料理店じゃないか」
「なに言うてはるんですか~。看板にかいてはるでしょ~。スパイス料理専門店ではるよ~」
看板? SPA石井……スパイシーかい!
「だったらあの☆は何なんだよ、ややこしい」
「一つ星レストランなんですよ、これでもうち~」
「何だって、ミシュランの星を獲得してるのか。だからこんな裏道でも……」
「いや、食べログです~」
「最低やん!」
まあでも単身赴任の悲しさ、今から帰って料理する気にはならない。コンビニ弁当を一人食べるくらいなら、たまにはこういうところで外食するのも悪くはない。ここ一ヵ月連絡のない妻と娘たちは、今ごろ伸び伸びと食卓を囲んでいるのだろう。そんな自分には星一つの店でまずい飯でも喰らうのがお似合いだ。村瀬は一番奥のテーブル席に座った。
「なんになさいますか~」
「その前に水をくれないか、できればレモン水を」
ふざけた訛りのイントネーションで喋っていた店員が突然真顔になった。
「いま、レモン水とおっしゃいましたね」
「え、ああ、言った」
「注文の前にレモン水」
「それが何か」
「こちらへどうぞ」
背筋を伸ばした店員が厨房の暖簾をめくって村瀬を誘った。
どこへ連れて行かれるのだろう。もしやスパイ映画のワンシーンのような、合い言葉を知らずに言ってしまってトラブルに巻き込まれるシチュエーションなのでは。逃げ出すなら今のうちだぞ。そう自分に言い聞かせるのだが、村瀬は眠っていた冒険心がむくむくと覚醒するのに抗えず、店員のあとに従った。
厨房には白い服を着た料理人が二人、黙々と調理に取り組んでおり、うしろを通る村瀬には気づいてさえいないようだ。片隅のパーティションで区切られた裏側に案内され、年季の入った木製のスツールに座るよう促された。
「しばしお待ちを」
言葉とは不思議なものだ。さっきまでへらへらしていた店員が一回り大きく見える。しばらくすると店員が戻ってきて、傷だらけの無粋なショットグラスを手渡した。村瀬が手に取り中を覗くと、半透明の液体で満たされている。何らかの違法ドラッグか毒物か。いっそこのまま明日が来ないのも良いかも知れない。村瀬はしばらく液面を見つめると、顎で促す店員に見られたまま一気に呷った。
喉が灼ける。いや、灼けるというよりは絞られる。頸が締め付けられ気道が狭まる。
「うっ……」
息に詰まった村瀬は叫んだ。
「酸っぱいしーっ!!」
「オー、イェイ! ウィーアーSPA☆イシイ!!」
店員が村瀬にハイタッチを求めてくる。なんなんだこの店は。村瀬の頭は混乱し、情報処理能力の限界を超えて真っ白になった。
「村瀬くん、最近成績がいいようね」
「はい、権藤課長。やっとうまくリフレッシュができるようになりました」
落ち着いた頭で考えると権藤は公平な上司で、言うことは厳しいが理にかなっており、部下の健康状態にさえ目を配っていた。余裕がなければ冷静な判断もできなくなるものだし、初めての女性上司ということで自分の中に歪んだ偏見さえあったのかも知れないと、SPA☆石井に通うようになって、村瀬は気づかされた。
その日の終業後、久しぶりにSPA☆石井を訪ねてみた。派手な看板があったはずの区画には扉のずれた古民家が建っていた。もしかしたら道を間違えてしまったのかも知れない。村瀬は小一時間あたりをうろついてみたが、遂にSPA☆石井を見つけることはできなかった。
<了>
最初のコメントを投稿しよう!