馬鹿馬鹿しい約束

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 平日深夜の、寝入りばな。スマートフォンが発する耳障りな高音が、常夜灯だけが灯る暗い部屋に鳴り響いた。  川野辺廣太(かわのべひろた)には淋しがり屋の恋人も、宵っ張りの友人もいない。何か緊急事態かと、眠気と疲労に逆らい布団から腕を伸ばし、ローテーブルの上に置いていたスマートフォンを掴んだ。  すぐに下がろうとする上瞼を無理矢理上げて発信元を確認すると、途端に緊張は解け、と同時に電話に出てやる気も失せた。  呼出音は数回鳴った後、途切れた。やれやれとテーブルに戻しかけたところでスマートフォンが再び鳴り出し、それで廣太は観念した。 「もしもし」 『あ、寝てた?』  非常識な時間に電話を掛けてきたというのに、申し訳なさそうな様子など微塵もないふてぶてしい態度。廣太が一度は無視しようした電話の主は、大学時代に出会い、今でもちょくちょくつるんで飲みに行く戸塚礼奈(とづかれな)だった。 「寝てた」  柔らかく接する必要がある相手ではない。廣太は不機嫌を露わに答えた。 『あのさ、あの件どうするの?』  案の定、礼奈は廣太の機嫌などお構いなしに話を続けた。 「あの件?」 『だって明日、誕生日でしょ』 「……」  その昔、少年だった時分には、自分にとってどの日より重要だった、その日付け。それをすっかり忘れてしまっていたことを、廣太は今、思い出した。  いや、月頭に実家の母親と電話をした時にはそんな話も出てきて、それから暫らくの間は憶えていたのだ。それが、その後急遽入った仕事の納期日がその日の三日後だったばっかりに、忙しさの中、自分の誕生日のことなどすっかり忘れてしまっていた。  今度の誕生日はいよいよ大台に乗る、例年よりも特別な誕生日だというのに。社畜化した人間とはこういうものかと、自分が実年齢以上に老け込んでしまったような気がした。 『三十歳だね』 「あー…、うん。そっちは二ヶ月前、だったっけ?」 『うん、そう。それでさ、どうするの?』 「どうするって、何を?」  まさか、三十歳の会社員男性が友人を招いて自分の誕生日パーティーを催すなんてことは、やらないだろう…いや、やる人もいるかもしれないが、廣太はそういった類のことを好む性格ではない。全くない。 『だから、結婚するの?』 「は?結婚?」  誕生日と結婚。これまで、その二つを結びつけて考えた経験は廣太にはなかった。 「んなもんしないよ。相手もいないのに」  言いながら、廣太は二年前に別れた恋人のことを思い出した。「いい人」止まりでいつも恋が終わっていた廣太を、「いい人だから好き」と受け入れてくれた人。そして、廣太が結婚について切り出そうと考えていた矢先、女癖の悪いDV男とよりを戻し去って行った女。  未だに廣太の心には癒えない傷が残ってはいるが、彼女との関係はとっくに終わっているし、その後新しい恋人ができたということもない。そんなこと、礼奈もよく知っているだろうに。  ああ、こんな思い出したくもないことを思い出したら、もうすっかり目が覚めてしまった。この電話を切ったら、すぐにでも寝直そうと思っていたのに! 『相手はいるじゃん。わたし』  すっかり回転が良くなった頭で、廣太は自分と礼奈、二人が出会ってからこれまでの情景を、映画を観るかのように思い返した。  そういえば、礼奈は大学卒業後、他の友人たちと連絡をとっている様子はなく、廣太ばかりを飲みに誘っている。  大学時代、礼奈は大人数での飲み会でも、必ず廣太の席の近くに座っていた。  初めて言葉を交わした時、話し掛けてきたのは礼奈の方だった。  思えば、そうだったのか。ずっと前から、もしかしたら出会った時から、礼奈は……。 「俺のこと、好きだったのか。ごめん、俺、お前をそんな風には」 『は?そんなわけないじゃん』  勘違いを一切許さない明快な返事に、廣太の頭は瞬時に冷えた。そうだった。こいつ、典型的な好き避けするタイプだった。 『五年前の約束、憶えてる?』  なんのことやら心当たりのない廣太は、黙るしかなかった。 「あー、やっぱ忘れてたか」  ……結論としては、その約束に関して、廣太は礼奈に説明されても結局何も思い出せなかった。  しかし五年前と言えば、礼奈が彼氏いない歴二十三年の末にやっと出来た初めての恋人にフラれた時期で、その時に二人で朝まで飲み明かしたことがあったのは憶えていた。  しかし、憶えていたのはそれだけだった。 『“こんなんじゃ、きっと一生結婚もできないんだ”って、わたしが喚いたら、廣太、“だったら、おれが結婚してやる”って言ったじゃん』  廣太はアルコールと相性が悪く、成人してから二十代半ばまでの間に酒での失敗を何度も繰り返した。それに懲りて今はもう酒類は絶っているが、まさか、五年前の酔った勢いでの失言を今頃になって蒸し返されるとは。誕生日前夜なんてものは、ろくなものではない。 『で、わたしが“それは嫌だ”って言ったら』  ……おれ、好きでもない奴にフラれてたのか。 『“三十になってもまだ二人とも独身だったら、その時は結婚しよう”って廣太が言い出して』  そんなドラマみたいなこと、普通言わないだろ。そう思った廣太だったが、すぐにドラマ好きな自分を顧みて、その意見は引っ込めた。 『わたしも“それならいいかな”って思って。それで、指切りして約束したでしょ?』  指切り……ただの友達と?酔っ払ってると、普段絶対しないことまでするのな。 『思い出した?』 「ごめん。ぜんぜん」 『それでさ、お互い三十になってもまだ独身なんだけど、どうするの?」  礼奈は廣太が憶えていようがいまいが、どうでもいいらしかった。約束を交わしたという事実こそが、彼女にとっては大事なのだ。 「どうするって…」  廣太に、忘れていたはずの眠気が突然襲いかかってきた。その理由は紛れもなく、答えることから逃げたいからだった。 「礼奈は?俺と結婚したいの?」  廣太は眠気には逃げず、質問に質問で返すことで逃げた。 『したくないかも』 「そっか。おれも」  心底安堵した。そして、少し傷付いた。好きでもない奴に二度もフラれてしまった。 『五年前に廣太の提案に乗ったのはさ、殆どノリだったんだけど、でも五年後、三十にもなってれば、自分の考え方も変わってるんじゃないかとも思ったんだよね。恋愛と結婚は別って割り切れるようになってるんじゃないかって。だったら、一緒に居て気を遣わない相手と結婚するのもいいんじゃないかって。そんな風に思えるようになってるかもって、思ったの』 「ならなかったんだ」 『ならなかったね。こんな三十歳になるとは思ってなかった。こんなままで、三十になっちゃったよ』  礼奈が自嘲して笑ったのに合わせて、廣太も笑った。彼女を笑ったのではなく、自分も同じだと自分を嗤った。 「じゃ、結婚するって約束は無効ってことで」  我ながら単純過ぎると感じつつ、廣太はここ数ヶ月で最も清々しい気持ちになって言った。 『うーん。それなんだけどさ、十年延長とかできる?」 「は?」 『四十になれば、さすがに諦めついてるかもしれないし』  それは多分ないんじゃないかと、廣太は即座に思った。しかし、ふと気が変った。 「じゃあ、お互い四十になってもまだ独身だったら、その時は結婚すると」 『仮ね、仮。その時になったら、またこうやって話し合って決めよう』 「わかった」  今晩は酒に酔っているわけではない。二人ともだ。よくこんなことをしらふで気軽に話せるものだと、廣太の客観的な意識がしらけた。 『じゃあ、お誕生日おめでとう。またね。おやすみ』  ブツリと電話が切れた後、液晶画面を見ると、時刻は零時ちょうどになっていた。  またテーブルに向かって腕を伸ばし、今度はスマートフォンから手を離すと、目が覚めてしまっていたはずが、するすると眠りの淀みに捕まった。それは何より良いことだった。これから納期日間近の仕事は更にきつくなる。今のうちに深い睡眠をとっておくことは、何より大事だった。  廣太は眠りと覚醒の間をたゆたいながら、思った。  これから年を重ねるにつれ、きっと出会いの機会も減っていく。だから、お互いを保険にしておくのは、お互いにとって良いことだ。いや、自分にとって、良いことだ。  こうなったら、四十になるまで礼奈には是非一人でいて欲しい。少なくとも、自分が他の女性と一緒になるまでは、彼女が独身でい続けますように。それにしても、友人の幸せを願えないなんて、なんて馬鹿馬鹿しい約束をしてしまったんだろう。  そこまで思って、しかし、廣太は思い直した。  多分、自分が望んでいることなんて、もっと単純なことだ。自分の四十の誕生日を忘れたとしても、それを思い出させる電話をかけてもらえる。その約束が欲しかっただけなんだ。  そう腑に落ちたのと、眠りに落ちたのと、同時だった。
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