3.espressivo/エスプレッシーヴォ

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 杏香は自身が醸し出すミステリアスな雰囲気が男女問わず近寄りがたい空気を作ってしまうタイプの人間だ。そのうえ彼女は学生時代は音楽に没頭していたこともあり、交友関係はほぼないと言ってよい。休日にどこかに出かけて出会いを求めるような積極的なタイプでもない。職場では製パンスタッフが男性だが、全員既婚者でそういった関係になることなどあるわけもない。そのため異性と親しくなる機会など皆無で、光昭が放った言葉の意味をどう受け取ってよいのかもわからなかった。  次の瞬間、バス停にぶわりと風が吹き付ける。キィ、という甲高い金属音とともに、目の前に止まった路線バスからいつもと同じ落ち着いた声色の自動アナウンスが落ちてきた。 「お待たせしました、『慶和台』行きです」  目の前に到着したのは杏香がいつも使っている路線バス。彼女の自宅はこのバスの終点である慶和台という住宅街の近く。そこに建っているマンションの一室を借りているのだ。  心の奥底に生まれた喩えようもないむず痒さを抱えたまま、杏香は通勤バッグに繋げたパスケースに触れ「すみません」と小さく口にした。すると、同じタイミングで光昭が顔の前で真っ直ぐに伸ばした手のひらを合わせごめんというジェスチャーを杏香に向ける。 「あ、ごめん。俺、慶和台に住んでて。このバスだから。帰るね?」  じゃぁね、と手を振る光昭に杏香はふたたび目を瞬かせるしかなかった。職場も近かったのに、自宅も近いのか。 「その……私、も……家が慶和台なので」  手にしたパスケースをぎゅっと握り締め、杏香はおずおずと光昭の表情を見遣る。光昭も驚いたように瞠目し、へにゃりと笑った。 「そっか~! もうちょっと話せたらって思ってたんだよね。ラッキー」  光昭は音符を付けたような嬉しそうな声色で言葉を紡ぐ。杏香は弾けるような笑顔を浮かべた光昭を見ていられず、思わず顔を伏せた。パスケースを機械に翳しながら、どういう意味だろうか、と、必死に考えを巡らせる。杏香はもとから彼に対して好意に近い感情を抱いていたけれど、もしかすると――光昭も杏香のことを。
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