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(やばっ……)
このままでは彼らのペースに巻き込まれる。なしくずしに彼らと行動を共にすれば、きっと無事ではいられない。本能的に身の危険を感じた杏香は必死にその場に踏ん張ろうと両足に力を入れた。その刹那、するりと割り込んできた誰かが、杏香の腕を掴んでいる男の腕をガッシリととらえた。
「……やぁ、待たせたね?」
綺麗なバリトンが耳朶を打った。ピンと張り詰めた空気がこの場を支配している。
「なんだ? お前」
杏香の腕を掴んでいた男が、訝しげな声を上げた。この場の全員が割り込んできた人物に視線を向けている。杏香の腕を掴んだままの男の腕を、目の前の彼が握っている。握った指の先が白く変色していることから相当な力を入れているのだろう。その痛みに耐えかねたのか、初めに声をかけた瞬間から一向に杏香の腕から手を離さなかった男が顔を顰め、その手を離した。
「探したよ~。俺、あっちのバス停だと思ってたから」
へらりと笑みを浮かべた彼は、深く被った黒いハンチングハットのツバをくいっと上げた。露わになった彼の強い視線が、杏香を取り囲む男たちへと向けられる。
「ッ……」
端正な顔立ちは優しく微笑んでいるように見えるが、眼は絶対に笑っていないとわかる。そして――彼の瞳は、今しがた吹き出した鮮血を連想させるような真っ赤な色をしていた。
空から降り注ぐ夕刻の茜色の光は、今だけは逢魔が時を彷彿とさせた。『禍々しい』と表現するのが正しいような彼の鋭い視線。杏香の周囲の男たちが息を飲むのが伝わってくる。
澱んだ昏い赤い色に染まった世界の中で、すっと。鮮紅色の瞳が男たちを真っ直ぐに捉え、獲物を前にしたかのように細く歪んだ。
「ねぇ、君たち。俺のエサに手を出そうとしてたってわけ? い~度胸だね。……全員、血を抜いてあげようか」
心地よいバリトンが凄みを孕んだ声色へと変遷した。にやりと微笑んだ彼の口元には、牙のような何かが見え隠れしている。
冷静に考えれば、目の前の彼もハロウィンにちなんだヴァンパイヤのコスプレをしているのだと察せられる。血のような紅い瞳もカラーコンタクトをしているのだろう。が、彼を中心とした空間に『瘴気』ともいうべき何かが立ち込めている現状では、酒に酔った男たちが冷静な判断を下せるはずもない。
「お……おい、行こうぜ」
杏香の周りのひとりが焦燥感を滲ませた声を上げた。その声を皮切りに、わらわらと蜘蛛の子を散らすように杏香の周りから人が捌けていった。
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