3.espressivo/エスプレッシーヴォ

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3.espressivo/エスプレッシーヴォ

「あ、あの……助けてくださって、ありがとうございました」  杏香を取り囲んでいた男たちの影が完全に見えなくなったことを確認した彼女は、身体と声を強張らせながらも割って入ってくれた男性に向かってぺこりと頭を下げた。 「いや、いーんだ。ちょうど声をかけられてるあたりから見てた。友達と待ち合わせって断られてるのにあいつらずいぶん調子に乗ってたみたいだから、待ち合わせ相手を装って声かけてみようと思ったんだけど……」  男性は困ったように小さく肩を竦める。そんなに前から目撃されていたのかと思うと、杏香はこみ上げてくる何とも言えない居た堪れなさからふたたび頭を下げた。 「えっと、その。本当に助かりました」 「助けるためとはいえ俺のエサとか言っちゃってごめんね? でも無事でよかった。てかごめん、怖がらせた? 俺、ちょっとやりすぎたかなぁ」  彼女の身体の強張りの理由を彼は先ほどの自分の言動のせいだと思っているのか、(おど)けたように頭を掻きながら杏香の顔を覗き込む。いたずらっ子のようなその表情からは先ほどの禍々しいような雰囲気は全く感じられず、まさに絵に描いた『好青年』。  杏香は(ほう)けたように目の前の彼の真っ赤な瞳に見入った。鮮血のようなその色は確かに不気味だけれど、不思議なことに恐怖感を抱くことはない。むしろ親近感のような何かを感じさせる。己を包んでいた身の危険から解放された安心感に杏香はふっと口角を上げ彼と同じように小さく肩を竦める。 「いえ。何というか、本当に『獲物を横取りされて怒っている吸血鬼』、みたいでしたよ。お上手でした」 「お! やったね! 俺、学生のころ演劇部だったから、演技力には自信があったんだよね~」  弾けるような笑顔が杏香の目の前にあった。彼はハンチングハットのつばを触りながら『してやったり』という表情を浮かべている。だというのに、その笑顔は次の瞬間には消え、彼は困ったように視線を彷徨わせ眉を下げた。コロコロと変わる彼の表情に杏香の視線は釘付けになってしまう。 「……あのさ? こう言っちゃうと俺もあいつらみたいなナンパ師に見えちゃうかもしれないけど」 「? はい……?」  杏香はきょとんとしたまま目を瞬かせた。唇を震わせ、何かを言いあぐねているような彼の表情。促すように杏香が首をこてんと傾げれば、彼は観念したかのようにゆっくりとベイストリートを指差した。 「ちょっと前。俺、あのピアノを弾いてたんだけど。その時、君、いたよね? 覚えてない?」 「…………」
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