3.espressivo/エスプレッシーヴォ

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 考えてもいなかったセリフがぶつけられ、杏香は新手のナンパかと身を固くする。先ほどの酔っ払いから助けてくれたのも、この行動に繋げるための打算だったのだろうか。だとしたら腹黒すぎるだろう。一瞬で警戒心を剥き出しにした杏香の様子に彼は「どうしようかな」と苦笑いを浮かべ、ベイストリートに向けていた指先をそっと自分の黒いチノパンのポケットに差し入れた。   「ん~。こうすればわかる?」  そのポケットから黒いマスクを取り出した彼は、訝しげに目を細めたままその動作を眺める杏香の前でゆっくりとそれを身に着けた。 「あ……、――――!?」  杏香は息を飲んだ。彼の身なりを頭のてっぺんから足元までくまなく観察し、そして驚きで息が出来なくなった。  すらりとした長身。黒づくめの服を着て、黒いハンチングハットを被っている。  そして口元は、黒いマスクで覆い隠され端正な顔立ちが確認できなくなっていた。  目の前の彼の服装は、忘れもしない。忘れることなど、出来るはずもない。  あの夜、杏香が必死に記憶に焼き付けた、ストリートピアノを弾く『ハーフェン』の姿……そのもの、で。  思いもよらない展開に思考回路が停止してしまった杏香は、口をぱくぱくと開閉させるも驚きで言葉を紡ぎだすことが出来なかった。それもそうだろう。目の前に現れたのは手が届くはずもなかった『インターネット上の人』でもあるうえに、この二ヶ月、杏香は彼にまた巡り会えることを願うしかできなかった存在。さらに、一方的に『知っている』つもりだったのに、その人物から自分の存在を認知されていた――だなんて。 「あ、思い出した? あの時『戦場のメリークリスマス』弾いてたの、俺」  くすり、と、まるでいたずらっ子のように彼が笑った。それは、自分がしかけたいたずらに気がついてくれてとても嬉しい、と表現する無邪気な子どものよう。鮮紅色の瞳が心底面白そうに細められ、彼はゆっくりとマスクを外した。 「助けようって思ったのは、あの時の観客だって思い出したから」 「そ……う、だったんですか」  思っていたよりも引き攣れた声がこぼれ落ちていく。ゆっくりと呼吸を戻すも、想定もしていなかった出来事に杏香の脳内は大パニックを起こしていた。どくどくと大きく心臓が鼓動を刻んでおり、その音は杏香の聴覚を強く刺激する。 「()()ではたま~に弾いてたってくらいなんだけど、まぁ遅い時間だからか基本的に聴いてくれるひとがいなくてねぇ。だから聴いてくれるひとがいたら嬉しくて。あ、ちなみに俺、ここのモールの中の濱村(はまむら)楽器店のスタッフ。谷川(たにがわ)といいます」  彼は手持ち無沙汰に外したマスクの紐を指に引っ掛けてくるくると回していたが、はっと我に返ったのか慌てて胸元のポケットからネックストラップがついた名札ケースを取り出し、杏香へ見えるようにそれを手に持った。そこには彼が口にした通り、濱村楽器店のロゴマークと『谷川 光昭(みつあき)』という名前が記されている。
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