3.espressivo/エスプレッシーヴォ

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 まさか、『ハーフェン』の正体がこんなに身近な人物であったなんて。亜未が知ったらどう思うだろうか、と、そんなことを考えながらも、杏香はわずかばかりの躊躇いとともに自らの所属を申し出た。 「あ、あの……私も、そこのルヴァンで働いています」 「え、まじ? ルヴァンって、1階のパン屋さんだよね?」 「はい……」  杏香が勤めるベーカリー店の店舗名を口にすると、光昭は驚きと好奇心の入り交じったような表情で声を弾ませた。ルヴァンとはフランス語で『発酵』を意味する。店長が名付けた店名はまさにベーカリー店に相応しい店名だ。杏香もごそごそと通勤バッグから社員証を取り出し、光昭の前に差し出した。お互いに同じ施設内で働いていると知ると、不思議と杏香の心の中には光昭に対しての身内意識が湧いていた。  本当は、『ハーフェン』という名前で活動していることを知っている、ということを告げてしまおうか、と。杏香は心の内で葛藤していた。それを癒しにしている、ということも。けれど杏香の脳裏を過るのは、彼の身バレを恐れたような深く帽子をかぶって顔を隠している姿だ。同じ施設内で働いていることを互いに知ってしまった今、そこには触れない方がよいだろうかと必死に自分を律し、ほうと小さく息を吐いた。 「だから……谷川さん、そんな恰好していらっしゃるんですね」  杏香も苦笑いを浮かべながら小さく首を傾げた。彼もハロウィンというイベントに乗じてただ単にヴァンパイヤのコスプレをしているのかと思っていた。けれど、今日はこの施設全体の施策で店頭に立つスタッフはハロウィンにちなんだ衣装を身に纏うことが推奨されていたのだ。光昭もそれに準じているのだろう。 「ん? あ、そうそう。帰るときに全身着替えるのがメンドかったから、カラコンと付けキバだけでなんとかできないかなって思ってさ。これだとこの辺歩いててもあんまり浮かないでしょ? あ、この赤いカラコン、探すの苦労したんだよねぇ。コスプレは門外漢だし、結局後輩が手伝ってくれて一緒にネットで取り寄せた。花守さんは何着てた?」  普段から喋ることが苦手な杏香と対照的にカラッと明るい光昭は、ぐいぐいと杏香を自分のペースへと引き込んでいく。口下手な杏香にとってそれが不快というわけでもなかった。むしろ聞き手に回れてありがたいくらいだ。 「えっと……私は『魔女』の恰好をしてました」 「へ~! 俺も見たかったなぁ。()()()()()()()()()()()()()()()()」  光昭のその言葉に、一瞬、杏香は息を詰めた。自分でも顔が赤くなるのが分かる。落ち着き始めていた心臓が、ふたたびどくん、どくん、と大きく鼓動を刻んでいるのが伝わってくる。
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