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(いやいや……一応、初対面、なのに)
そんな都合のいいことが起こるわけはない。杏香も社会人となり、ドラマや小説の中で描かれるようなアバンチュールな出来事が易々と転がっているわけがないということも理解していた。……けれど。
前方から、ぽふん、と乾いた音が上がった。杏香が顔を上げると、先に二人席に座り込んだ光昭が自分の真横を優しく叩いていた。ここ、座るでしょ? と言わんばかりの光昭の視線に、杏香は跳ねる心臓を必死に押さえつけながらそっとそこに腰を下ろす。
「ね、ルヴァンは今日忙しかったの?」
「そこそこ……今日までの限定商品を置いていたので、やっぱり普段よりも売れ行きは良かったですよ」
「うそ!? ルヴァンに限定なんてあったの!? 俺食べれなかった~」
バスが動き出した。それでも、杏香は平静を心がけて会話を続けていく。限定商品が食べられなかった、と頭を抱える隣の光昭の仕草を、杏香は可愛いと思ってしまった。それを隠すように好戦的に笑ってみせる。
「クリスマスに向けても新作が出ますから。またの機会にご来店お待ちしております」
「うっわ~。花守さん、意外と商売上手だね?」
「これでもルヴァンでは新参者なんですよ。販売実績を積み重ねないと、なので。せっかくのご縁、使わせていただきますね?」
ふふふ、と、わざとらしく笑みを浮かべて会話を纏めると、光昭もくすくすと笑みを浮かべた。光昭が会話を引っ張り、杏香が相槌を打つ。そのテンポは杏香にとって非常に心地よく、永遠に続けばいいのに、とも思えるほどだった。
その後も当たり障りのない会話を続けていくと、あっという間に終点へ着いた。通勤時とは異なり倍速で過ぎ去っていった優しい時間。杏香は思わず心の中で悪態をつきそうになる。
ふたりで連れ立って、ゆっくりとバスを降りる。既に日も落ち切って周囲は暗く、光昭は杏香を自宅まで送ると申し出た。輩から救い出してもらったうえに送ってもらうだなんて申し訳なさすぎる、と一度固辞したものの。
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