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「ん~ん。いいんだって。むしろ役得だって思ってるからさ?」
「……っ」
それは、本当に――どういう、意味だろう。赤い瞳のまま意味深に笑った光昭の表情。杏香は顔に血流が集中するのを感じた。ふたりで夜道を歩けば、10月の冷たい風が彼女の火照った顔をゆっくりと撫でていく。
「あの……お礼が、したいんですけど」
「ええ? いや、お返しとかいいよ。気にしないで? 俺こそあの日演奏聴いてくれてありがとうって気持ちだからさ?」
「で、も……」
杏香は必死に食らいつく。自分だけでは絶対にあの状況を打開できなかった。救い出してくれた光昭には本当に感謝している。そのお礼をしたい。そんなとき、脳裏に浮かんだのは、どこにでもありふれた陳腐な誘いだった。
「私、昨日カレー作りすぎちゃって。もしよかったら私の家で召し上がってくださいません?」
カレーを作りすぎたことは本当のこと。小分けしたフリーザーバッグに密封して冷凍をしている。食べきるのにどれくらいかかるだろう、とずっと考えていた。それをきっかけに彼と親密な関係になれないかという下心があったのは――否定できない、けれど。
杏香の紡いだ言葉に光昭ははたと足を止めた。一歩先を歩いてしまった杏香は疑問に思い、くるりとその場で振り返る。
「谷川、さん?」
「……ねぇ、花守さん。男を家に呼ぶって……意味、わかってる?」
ぞくりとするような艶のあるバリトンが響く。その声の低さに、杏香は得も言われぬ感覚を抱いた。
「……」
「…………」
杏香をじっと見つめる、真っ赤な瞳。捕食物を目の前にしたような強い視線。それはまるで、本当にヴァンパイアが差し出された贄を前に舌なめずりをしているよう、で。情欲に濡れた視線を真っ直ぐに受け取った杏香の肌は、一気にざわりと粟立った。
初対面の男性と……だなんて、怖くないわけがない。恋愛経験もまともにないのに、距離を縮めるという段階を通り越し、自分からその先のそういうことを受け入れる、だなんて。
けれど、杏香はもうすでに彼の虜だった。あの夜から。二ヶ月も前から――――ずっと。
「……わかって、ます」
ぎゅ、と。杏香は意を決して、自宅の鍵を握り締めた。
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