4.appassionato/アパッシオナート

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 ♭ ♯ ♭  今から一年前。光昭は指を怪我し、しばらくの間ピアノが弾けなくなっていた。絶望の淵に立たされるも()()は待ってくれない。勤めている楽器店での仕事をこなし、バックヤードでぼうっと将来のことを考えているとき。このショッピングモールの管理事務所からテナントに向けて月一回配られる広報紙のフリーコラムで、彼女のことを知った。 『ままならない現実に疲れたとき、呼吸することと食べることだけを目標にしたらいいとアドバイスをもらったことがあって。その時、そうだなって素直に思ったんです。だから、今はそういったお手伝いができたらいいなと思ってお店に立っています。『食べること』の楽しさを知ったひとが元気になってくれますように』  いつかピアニストとして花開くことを夢みて、高校も大学も、光昭はただひたすらに練習を重ねてきた。音大を卒業したあとは大きなホテルのレストランでの演奏やチャペルでの演奏を請け負って演者として経験を重ねた。それでも演奏家の仕事だけでは食べていけず、師範の伝手で就職した濱村楽器店で働きながら年に一度コンクールの場に立ち、ピアニストとしての夢を掴み取ろうとしていた。  指の負傷はそのコンクールの直前。今年こそは、と意気込んで練習を重ねてきた光昭はこれまでにないほど落ち込んだ。指が治っても後遺症が残ったら? もうピアニストという夢は捨てなければならないのだろうか。その時の光昭は昏く深い絶望の淵に立たされていた。  そんな折、想像もしないタイミングで触れた杏香の言葉は、光昭にとっての『救いの一言』だった。ピアノが弾けない自分には、何もできない、もうなんの価値も何もない、呼吸する価値さえない、と……そう思っていた。光昭はわけもわからず、広報紙を握り締めたままただただ嗚咽を零すしかなかった。  それからリハビリに強い病院の戸を叩き、怪我をする前の状態へ戻せるよう必死に努力を積み重ねた。音楽というのは1日やらないだけで3日分腕が落ちるといわれている。鍵盤を叩く感覚や運指の技術を取り戻すため、必死に努力を重ねた。  光昭を救ったのは杏香だが、光昭は一方的に知っているだけでいいと思っていた。……ルヴァンの店頭で、呼び込みをする彼女の姿を目にするまでは。  衝撃で息が止まるかと思った。すっと伸びた背筋と、美しい立ち振る舞い。いついかなる時も穏やかな微笑みを絶やさない。その姿はフリーコラムで語ってたように『食べることの楽しさ』を伝えたいという真っ直ぐな信念を光昭に感じさせた。  もうどうしようもなかった。  姿を見てしまえば、彼女に触れたくなってしまった。  一般の客を装ってルヴァンでパンを購入した。レジでのやり取りの際、彼女の左手人差し指の付け根にできたタコが目を引いた。光昭はそれだけで彼女が【フルート奏者】なのだと窺い知ることが出来た。人前に立つ彼女の凛とした姿は、きっとステージに立つという経験を積み重ねてきたからこそなのだと感じた。けれど、彼女の本名でインターネット上を漁っても、どこかで演奏していると言う情報は掴めなかった。
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