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そんなピアノに座るのは黒づくめの服装をしたすらりとした人物。彼はただただ淡々と、その音楽を奏で続けている。静かなイントロから始まったメロディは、ゆっくりと雪が降り積もっていくような音域へと移り変わっていく。
誰もが一度は聞いたことのある映画のメインテーマのメロディ――Merry christmas mr. lawrence。
彼の革靴がダンパーペダルを浅く踏み込んだ。ぼわんとした音の伸びが、この曲特有の物悲しさや切なさ、そして無骨さを適度に長く持続させている。
リズム感が変わり、ずん、と、重たい低音が響いた。繰り返されるトレモロ調のリズムにこの場の空気感が一瞬で張り詰めたものへと変わっていく。
(……すごい)
中盤から徐々に広く変化する音域。冒頭に出てきた同一のメロディが終盤まで幾度も繰り返されるこの曲は、演奏時に単に強弱を付けるだけでは表面的な表現で落ち着いてしまう。人種、言語、国境を越えてなお通じ合う『想い』、というメッセージ性の強い曲だからこそ、単に楽譜をなぞるだけの演奏では評価されない。難易度の高い曲だ。
そんな曲を、彼は一音一音を非常に丁寧に弾いて行く。大勢の観客が息を潜める静かなホールではなく、雑踏の隅から聴こえてくる彼のメロディは透明感に溢れ、身体の芯まで染み渡っていくような響き。祈りの光に照らされたような音に惹きつけられ、地面に足が埋まったかのように杏香はその場から動くことが出来ない。
これまでこの曲の演奏を聴く機会は多々あった。動画配信サイトでもこの楽曲を『弾いてみた』動画としてよくアップロードしている演者は多い。それでも彼の演奏は、間の取り方や空気感の使い方、そして聴き手を雪降る世界へと誘い没入させる、唯一無二の演奏と評するに値するものだった。
夢だった交響楽団への就職を掴み取れず、音楽という道を諦めた杏香。彼が奏でるメロディ、それは宙ぶらりんになったままの彼女の心を鷲掴みにするには、十分すぎるほどに十分で。杏香はただ、その場に立ち竦んだまま力強い演奏に耳を傾け続けた。
ふたたび訪れたトレモロ調の響き。物悲しい余韻が夜の狭間に紛れて消えていき、彼の指先がゆっくりと鍵盤から離れた。それでも未来への希望を感じさせるような一音の残し方に、杏香はほぅとため息を吐く。一瞬の空白ののち、彼女と同じく足を止めていた数名の観客からパチパチと拍手が送られた。その音ではっと我に返った杏香も、同じように彼へ向かって讃頌の拍手を送る。
四つ足椅子に腰かけていた彼はまばらな拍手に小さく何度もお辞儀を返しながら椅子から腰を上げた。そのまま自分の腰から下に向けて黒いスーツを軽く叩き、そこに生まれた皺を伸ばしていく。彼の演奏はこれで終了なのだと察した数名の観客がその場から歩き出した。
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