4.appassionato/アパッシオナート

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 もう、歯止めが利かなかった。  触れてしまえば、彼女を手に入れたくなってしまった。  気づけば、光昭は杏香に全てを絡め取られていた。  彼女しか欲しくないとさえ思ってしまった。    光昭は彼女に関する情報を出来るだけ集めた。一度だけ彼女を尾行し、彼女の自宅を把握した。勘づかれないようにルヴァンを遠巻きに眺め、彼女のシフトの規則性を調べた。それらの行動は全て楽器店での仕事や翌年のコンクールへ向けての練習の合間だったが、光昭にとっては至福の時間でもあった。  リハビリの合間で普段は弾かないストリートピアノも弾くようになった。音楽に触れてきた彼女がどこかで見つけてくれるように、動画投稿サイトにその様子をアップロードするようにした。  そして、夏のあの日。彼女の中番シフトの退勤時間を見計らってベイストリートで1曲弾いた。光昭の演奏に杏香が足を止めてくれるかどうかは、一か八かの賭けだった。足を止めたまま食い入るように光昭の姿を見つめていた杏香の行動で、光昭は杏香のことを『音楽の道を諦めた人間』なのだと推察した。  その直後、彼女の自宅の近くへと引っ越した。退勤の時間をかぶらせ、『いつも一緒になりますね』と声をかけて距離を縮めようとゆっくりと外堀を埋めはじめた。  けれど――幸か不幸か。いや、光昭にとっては僥倖の出来事(ハプニング)が起きた。  酔った男たちに囲まれている彼女の姿を見た光昭は、咄嗟に計画を変更した。目の前にあるチャンスを逃すという選択肢があるわけもなかった。  杏香に告げた『学生の時に演劇部だった』という話は嘘では無い。小学生の時のクラブ活動では、光昭は演劇部に所属していたからだ。  邪魔者を排除したのち、光昭は杏香へゆっくりと揺さぶりをかけた。光昭が巧妙な罠を仕込んだ一言一言を放つたび、杏香は表情には出さないものの動揺しているようだった。  もう一押し――――そう認識すれば、ゆっくりと脳が冴え渡っていった。  杏香の潤んだ瞳に先に囚われ雁字搦めになっていたのは、光昭の方だったのだろう。彼女が欲しくて欲しくて仕方ない。そう考えていた時だった。 「もしよかったら私の家で召し上がってくださいません?」  たった一言だった。けれど、その一言で光昭の理性は見事に焼き切れた。  ♯ ♭ ♯  ふっと、光昭の意識が浮上した。微睡みの中、緩やかな追憶が光昭の思考を支配していた。込み上げる欠伸を我慢することなく吐き出すと、腕の中の杏香が小さく身じろぎをする。 「……」  杏香はすぅすぅと規則的な寝息を立てていた。その姿に、光昭は横になったまま腕を伸ばし艶のある髪に指を入れた。 (やっと……)  欲しかった彼女を手に入れた。有り得ない偶然の積み重ねだったが、この幸運を引き寄せられたことも、光昭の努力(策略)の賜物だろう。光昭は、くつくつと喉の奥が鳴るのを自覚した。 (もう……逃がさない)  淡い月明かりが差し込む、音のない夜に。  光昭は穏やかに眠る彼女の髪を――――飽きることなく、ゆっくりと梳き続けた。
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