1.calmato/カルマート

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 魂を抜かれたかのように彼の演奏に聴き入っていた杏香も周囲に倣い、ふたたび帰路へ就く。それでも、杏香はどうしても彼から視線を外すことが出来なかった。ショッピングモールの正面にあるバス停へ向かって歩きながらも、彼女の視線は追尾カメラのように彼の動作を追っていく。  ピアノを弾き終えた彼は椅子から腰を上げたのち、ピアノの近くに設置してあった三脚へと腕を伸ばした。演奏中は杏香も全く気付いていなかったが、三脚の天辺にはスマートフォンが横向きで固定してある。杏香の推測にすぎないけれども、恐らく彼は自分の演奏の様子を動画として撮影していたのではないだろうか。 (……もしかして…)  ひとつの可能性に行き当たった杏香はふたたび彼の全身へと視線を向けた。彼の服装を記憶に焼き付けるかのようにくまなく眺め、そして何事もなかったかのように視線を外す。黒づくめの服装をした彼はさらに黒いマスクで顔の下半分を覆っており、そして前方につばが広がるハンチングハットを深めにかぶっていた。まるで身元が明らかになってしまうことを拒否しているようなその恰好は、杏香の推測に新たな証左を増やしていく。  バス停に辿り着いた杏香は通勤バッグの中からごそごそと自分のスマートフォンをひっぱりだし、動画配信サイトのアプリを立ち上げた。検索窓に、このショッピングモールの正式名称である『名港マリンモール』、ひとつスペースを開けて『ストリートピアノ』と打ち込み、検索を開始する……けれど。 (……う~ん…)  検索結果一覧をスクロールしていっても、この場所のストリートピアノを演奏している動画はいくつかヒットするが先ほどの彼らしき人物が演奏している動画は見当たらない。もしかすると、今夜の演奏が彼にとってこの場所での初演奏だったのだろうか。――それとも。 (単に……録画してた、だけ?)  自分の演奏の様子を単純に動画におさめていただけなのだろうか。でも、そうだとすると、彼の()()()を恐れたようなあの服装に辻褄が合わなくなるような気がする。 (ん〜……)  眉間に皺を寄せた杏香はスマートフォンを胸元でぎゅっと握り締め、ふたたびストリートピアノのある方向へと顔を向ける。けれど、そこにはもう人影は無かった。視線を彷徨わせても、杏香の視界の範囲内ではまばらな通行人しか見当たらない。彼は後片付けを終え、どちらかへと行ってしまったらしい。 (……いつか、また…)  彼はこの場で演奏してくれるかもしれない。運が良ければ、今日と同じようにその瞬間に立ち会えるだろう。ストリート演奏は一期一会。もう二度と『彼』と巡り会えないかもしれないと思うと、杏香の胸の奥はぎゅうと締め付けられた。  次の瞬間、バス停にぶわりと風が吹き付ける。キィ、という甲高い金属音とともに、目の前に止まった路線バスから落ち着いた声色のアナウンスが落ちてきた。 「お待たせしました、『慶和台(けいわだい)』行きです」  彼女は胸の中に名残惜しさだけを抱えたまま、ゆっくりと目の前のバスに乗り込んだ。
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